今日も今日とて、とぜんでございます。

20代偏屈オタ男が日々とりとめないことを 書き留めるための随想録。 そしてそれは落書帳。 そしてそれはネタ帳。

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久酒

流石ハロウィンだ。街中にも仮装した人たちが闊歩していて楽しそうだった。
ガチャピンが卒然とたばこを吸っているのには笑った。
おれはあの魔女が持っているデスサイズ、地獄の鎌が欲しい。
なんか知らぬが無性に武器のレプリカが欲しくなる。んで買って無作為に置いてある。
でもたまにながめて悦に入るので自分としては無駄でもない。
パンプキンポットに入った飴を舐めながらなんとなく懐かしい子供のころの記憶をたどる。
そんなハロウィンだった。

そして久々に酒を飲みにいった。今月は気分が落ちていたので禁酒していた。
トーンダウンしているときに酒を飲むと悪い酒になりそうだったし
そうなると自然と寝ざめも悪いものだからだ。精神と肉体はやはり密接な関係にある。

でも気の置けない仲のものと飲むのならまた別だ。気分が落ち着いた。
人は知らぬところで苦労を背負っているものだなとしみじみした。
「おれだけじゃない。」と思えるだけで全然気分は変わるものだ。
人はただ共鳴し同調してくれる人がいるだけで安らぐものだ。感謝しなくてはならない。

10月も終わりで2007年もあと2か月だ。早いような遅いような不思議な感覚だ。
あまりに色々なことがありすぎて振り返るにもなかなかしんどい。
とりあえず今は前だけを見ていようと思う。ひとりでいるときは沈むこともあるけれど、
誰かいるだけで無駄に明るくなれるのでそうしていよう。
それがおれにとって自己防衛の手段でもあることを最近知った。

今年の冬は一段と冷えそうだ。
でも寒さはどこか澄んだ気持ちにさせてくれるので嫌いじゃない。
故郷の白い雪がみたい。


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勉強人生

昔っから勉強するのは嫌いだが、テストでいい点取るのは好きだった
おれは言うまでもなくかなり悪辣な結果主義の学生生活を送ってきた。

最低限の努力で最大限の成果を得ようとセコイことばかり考えていた。
何でも期限ギリギリで集中一夜漬けで乗り切ろうとする悪癖は未だに抜けない。
まがりなりにも20年間生きてきてしみついたこの癖は、長年タバコの煙に晒された
カーテンの黄ばんだヤニのようになかなか取り去れないものなのだ。

とにかく家で勉強するのが嫌いだった。
そして小学校高学年から中学生の間まででお世辞にも良好とはいえない学生生活を
歩んだおれは先生というものに不信感と絶望を抱いていた。

だから高校になる頃にはなんとか学校にいる間の細かい時間を使って
高速で予習をして怠慢を表面化させないように授業に備えた。
本番の授業では用意しておいた答えを机に置いて、寝るか漫画を読んでいた。

教師にとっては非常に性質の悪い生徒だったと今にして思い返す。
悪辣な態度とは裏腹に当てても答えははずさないので非常に面倒くさい
生徒になっていたはずだ。そうこうしているうちに殆どに当てられることがなくなったので
悠々自適に授業時間を過ごすことができるようになっていた。

こうした学生生活が良いのか悪いのかわからないが、未だに適当に高速に
要点だけ覚えるのは得意だ。高校を出てからわかったことだが、
結局生きている限り「勉強」から逃れる術がないことを悟った。
幸い知ることは好きなのでさほど今は苦痛ではなくなっているし、
この集中一夜漬けはかなり役に立っている。

資格の時代とも言える現代はとにかく要所要所で勉強しなければならないことが増えている。
表面的な書く勉強については常に要領の良さがものを言うので
あながち荒んだ学生生活も悪くはなかったと思う。

学校の勉強に何の意味があるんだと典型的な質問を投げかける妹は
一見意味のなかったような経験と試行錯誤が後に役に立つことに気付くのは無理だろう。
そのことに気づけるのは予知能力者だけだろう。
だからおれは意味があるかないかはおれにも分からないと答えている。
ただ意味なんかあるかないか、それは自分が決めることだし
とりあえず今はそれしかないんだからやっておけと付け加えている。

教育とはなんと難しいものだろうか。不確定の人の未来に対して
本当に役に立つことなど誰にも教えることはできないのではないだろうか。

小学校の頃もパーだったのでたぶん何の疑問も抱いていなかったような気がする。
そんなこと考えるよりもずっと目先のことで精いっぱいだった。
なまじ頭が良くてほかのことに頭が回るのもただその時間を楽しむ上では考えものだなーと
ちょっと考えてしまった。


いもうとよ

おれには小学6年生の妹がいる。都合10年も歳の差がある。
今にして思えばなぜこんな間隔が空いているのかわからん。
まあそんなことを詮索するのはあまりに無粋だろう。

いわゆる「ガッコ」にこれからまだまだ通う妹の姿はおれに色々な感慨をさずけてくれる。
女の子の精神年齢は男の子よりも上回るというのは論理的にも実践的にも
その通りなんだなぁと思い知らされる。

学校がめちゃめちゃつまらないと豪語している妹はどうやら異性が大嫌いらしい。
そもそも小学校の頃から頭がパープーだったおれは異性のことなど
ちっとも気にもとめていなかった。「古畑任三郎」のモノマネをして、
「地獄先生ぬ〜べ〜」を見て興奮するような小学生だった。つまり変態である。

そんな彼女を見ているとなんだか同じ家庭に生まれてもまったく
違った感性を持っていることにDNAの不可思議さに驚くものだ。

とにもかくにも男子を目の敵にしているらしい。小学生の頃のおれよりも数倍妹は
頭が良いので一度約束したことは決して忘れない。南京錠が絡まった鎖のような
記憶力だ。ただでさえ女の子の約束ごとには悩まされるというのに、性質が悪い。
おちんちんがついているバカな兄貴としては心配である。
中学生になったらどうなるのだろうか。

人の成長というのはやはり面白い。何もまっすぐ正しい方向に伸びていくだけが成長では
ないと思う。あれやこれや悩んで苦労してちょっとでも変われればそれはその人にとっての
成長なのだろう。そんなちょっとした変化を見守ってやれる兄貴になれれば良いなと思う、
今日この頃である。


うーんどうにも咳が止まらない。薬飲んでも効きやしない。

ゴホゴホと何度も出るわけではなく、ゴーッホ!っとでっかいのがでる。
扁桃腺がもともとおかしいので、でかい咳はよく出るんだけども、
どうも頻度が多くなって困るもんです。
手術を勧められたこともあったような記憶があるんですが、
びびってほったらかしのまま時は過ぎている。
お医者さんにかかっても特になんも言われないので問題はないようだが。

あんまりでかい咳をすると人にびっくりされるのでなんとか抑えてる。
なんだかすげー病弱な感じがするが、そうでもない。

基本的には気合いを入れれば二、三日無茶しても平気なもんだ。
そういう無茶をした場合、一日充電する日が必要になるので
予定が詰まっていると無茶はできない。

良く寝て良く食って良く動く。動物的に過ごすのがなによりだと思う。
10代のころは食っても食ってもすぐ消費されるけども
20代はきっとそうはいかない。腹八分目、きちんとした生活をしないといかんと思う。

健康第一主義万歳。


品格の時代

本屋をたむろしていると新書の山に坂東真理子氏の「女性の品格」の
臙脂色の表紙がやたらに目についた。
TVでも特集が組まれていたし、内容をちらっと見てみた。

「約束を守る」、「流行を追わない」、「良いことはさりげなくする」、
「家族の愚痴を言わない」などと品格ある女性とは
何かということを事例を用いて書いてある。

今は何でも大安売りの時代で親書も数百円で買える時代であり、
うちの現代思想の教授も「新書」による「思想」の薄利多売の時代だと
評しているが、確かに昔は一般的なお偉いさんの学者の本というのは
分厚く、高い上に内容も難しく、一般人には取っ付きにくかったのは事実だと思う。

果たしてそれが良いの悪いのか別としてこういった社会的思想について
国民の興味が高まっているのは確かなようだ。

gooリサーチに「品格・道徳感」についてのリサーチが行われていて面白い。
http://research.goo.ne.jp/database/data/000296/

おれもこのブログで色々と礼儀だとか道徳について不満を述べたことが
あるような気がする。確かにそれだけ道徳心の無い人が周りに増えているのは
おれも体感できるし、よく周りからもそういった人の不満や相談を聞くこともある。

小学校の頃の「道徳」の時間を思い出す。というか実は「道徳」という
言葉が切に聞かされるのは教育の中ではその時間しかない。
以後は一切「道徳」については具体的に教育がなされることはない。
もはや当たり前だから教えないのかもしれない。別に口喧しいどこぞの親のように、
学校で「道徳」をちゃんと教えるべきだ。と言いたいわけではない。

道徳や品格を身につけさせる、あるいは身につけるというのは
大変難しいことだからだ。「当り前のこと」を教えることほど難しいことはないと思う。
「品格・道徳」というものはその人の育ってきた環境と価値観に大きく左右される。
もっとかみ砕いて言えばその人の「歩き方や癖」くらい自然なレベルで
顕在化してくるようなものである。

「品格」という言葉が使われる文脈は、「あの人はどことなく品格があるね。」
「王者の品格が漂っている。」とかいう程度のものであり、
どーん!と「品格」自体が主張してくることはないことからも
品格とは非常にオーラ的で具体性のないものであると思う。

だからおれ個人の意見としては本を読んだくらいで一朝一夕に身に着くのなら
苦労はしないなとちょっと斜に構えた辛口な意見だが、
意識しないよりはした方が断然良いことには変わりはない。

とにもかくにも「道徳・品格」はそれこそ長い期間を経て培われていく「気品」に近い。
そもそも何のためにそんなものを身につけるかと言うと「人に嫌な思い」を
させないためである。少なくとも小学校ではそう教えていたはずだ。
「~~君はこうされたら嫌だよね、だから君も人に嫌なことするのはやめようねぇ~」
と幼稚園でも教えているはずだ。

しかしどうも最近のセレブ主義とか贅沢主義、余裕主義みたいなものが
美徳として誰もが憧れているんだというマスコミの宣伝広告によって
品格をなぜ身につけるのかというベクトルの向きがおかしくなっているように思える。
貴族社会であればそういった要素でテーブルマナーを身につけなければならないというのは
分かるが、日本はまだそこまでブルジョアジーがはっきりしている国ではないはずだ。

端的に言うと「人に嫌な思い」をさせないというよりも「人に良く見られたいから」と
言った空気を感じずにはいられないからだ。

勿論、人によく見られたいとか虚栄心というのは誰でもあるし
それがなくなれば人はどんどん堕落していくので一言でそれが悪いと断罪できないが
果たして「虚栄心」だけで道徳が身につくのかというとやはり疑問だ。

よっぽどの精神力がなければ人は背伸びしてずっと歩くことはできない。
どこかで綻んで結局は身の丈にあった生活の仕方に戻るものだ。


リサーチによると道徳心がなくなったから犯罪が増えたという意見が多いが
社会という環境が悪くなったから道徳心がなくなるという見方もできる。
まあ何のせいかということを言うのはあまりに不毛だ。

もうひとつ面白いデータは取り入れるべき主義として「個人主義」が
取り上げられているところである。

そもそも個人主義とは何かということがまず難しいのではないだろうか。
国家論の中で出てくることが多いようだが、"wiki"にはこうまとめてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9

「個人主義は他者の拒絶や排除によっては達成されえず、
自分同様に他者を尊重することをもって初めて達成しうるものである
(そうでなければ個人主義を達成するために他人を犠牲にすることになる)ので、
利己主義とは区別される。」

意外や意外で、「個人主義」と聞いたら自分がまず第一であるという
雰囲気を感じやすいものだが、何よりも他者を尊重する思想なのだ。
事実「個人主義」と「競争原理」は割と同じような文脈に登場していることが多い。

個人主義を成すには付け加えてwikiにはこう載っている。
「他人に対するように自分を尊重し、自分に対するように他人を尊重しなければ
こういった考え方は十分に機能せず、エゴイズムの暴走を招くことになる。
そのため高度な知性と自己統制を必要とするスタイルであるといえよう。」

高度な知性と自己統制とあるがこれは「道徳心」と言ってもいいのではないだろうか。
他者を尊重することが「個人主義」の前提条件というのは明白のようだ。

「個人主義」とか「自己責任」という言葉を聞くとき「自分がきちんとしていればいいのだ。」
というニュアンスを感じていたのはおれだけだろうか。その実まったく逆である。
こういう言葉を掲げることができるのは何よりもまず他者を尊重できる人間だけなのだ。

思想を「購入」するのなら、ちょっとその世界に入り込んでみると
色々なものが数珠つなぎに絡んでいることがよーくわかるものだ。

民衆が「道徳心」が足りないと感じているのならそれが見えざる手によって
自浄されることを切に願うが、願っているだけではどうにもならないと思うので、
おれも立派な「個人主義」を身につけられるように日々精進し、
当たり前で最も難しいことであるが、「人の痛みが分かる」人間でありたいと思う。


第2章:疲れのその先へ

博多にて謎の一大アミューズメントパーク「レジャっぱ!」にて九州の初夜を迎えた
男四人一行。この先の計画も依然霞がかったままとりあえずこの不夜城で夜を越そうと
目論んだのであった。

大きなのを催していた私は濃い緑色のカベに囲まれている
アミューズメントっぽいトイレにて事なきを得て大人としての尊厳を守ることができた。

さて中の構造は前章で説明した通り、エントランスに入ってすぐ見えたのは
「サスケ」もどきとゲームコーナーである。ゲームコーナーと言っても要は
ゲームセンターと言って差し支えがない。ただ違うのは時間制であるから
コインを入れる必要はない。ただボタンを押すだけでいくらでも遊べるというわけだ。
上にボーリングレーンもあるようなので後で行こうとわいわいと盛り上がっていた。

そして特筆すべきなのはロデオマシーンだ。ジョーバとか最近ではあの手の
マシーンが流行っているがそういった健康器具のそれとは異なっている。
動きがやばい。激しすぎるのだ。事実振り落とされてもいいように
回りに黒い肉厚のマットがマシーンの中心から半径2メートルくらいに
渡って敷き詰められているのだ。動きに段階があるのかもしれないが
完全に制御不能になった馬の上に乗るのと大して変わらないと思う。

ここまでかなりの乳酸が体全体にたまっているのを感じた私は
別段乗る気も起きなかった。ぼーっと鉄の馬を眺めていると
若い地元民と思しきカップルがやってきて彼氏がおもむろに彼女を乗せて
その肢体を眺めて楽しんでいた。なんとなく嫉妬しながら微笑ましく眺めていた。
つくづく一般人とはかけ離れた思想のもとに足を進めている旅だなぁと
ふいに思い知らされた。10代の頃は私ももっと無邪気だったはずだろう。

このままだとお決まり通り物思いに耽ってちっとも楽しめないので
ストイックに音ゲーをやりにいった。中学の頃から音ゲーはやり続けてきた。
なので一般人から見たらだいたいキモイと言われるくらいのプレーはできる。

詳しく知らない人に説明すると、「ビートマニア」という名前くらいはご存じだろうか?
白と黒のボタンにスクラッチという回すギミックのついた筐体機である。
そして画面に映し出される上から流れてくる譜面とシーケンスに
合わせてボタンを押していくと音がなって曲が出来上がっていくというものだ。
他にもギター型やドラム型のものもあり色々な楽器をシミュレートすることができる。

口で説明するのは難しいので詳しく知りたい人は検索してほしい。
それをプレーしに行こうとしたら、恰幅の彼が見慣れぬ音ゲーをプレーしていた。
三味線シミュレーションだった。「太鼓の達人」があるのでまあ三味線もありかとも
思えるが、三味線は機械とかそういったものから最も程遠い楽器なので
その違和感といったらなかった。おまけにペチペチと音までするので
なんだか恰幅の彼がカラクリ人形のように見えて斬新な画であった。

負けじと「ドラムマニア」をプレイして一息ついた。
得てして男同士で遊びにいったりすると団体行動にはならず
何かスポーツをして遊ぶ以外はだいたい個人個人で遊ぶようになることが多い。
そういった例にもれず皆思い思いのゲームをプレーしていたようだった。

メガネの彼がスーファミから偉大な進化をとげたレースゲーム「F-ZERO」の筐体版を
やり終えたのをみなで見届けるとボーリングレーンに向かうために階段をかけあがった。


謎の施設は5階まであってレーンは最上階に位置していた。
外観から見てそんなに大きな建物には見えなかったのだがやはりデカイようだ。
階の途中にはサバゲーができるよう攻防が楽しそうなフィールドが用意されていたが
残念ながら明かりはついておらず、夜中は閉鎖されているようだった。
その閉鎖具合がなんだか雑居ビルの廃墟に見えて少し怖かった。

5階に辿り着くとガコーンというピンが倒れる小気味よい音がしている。
ピンクのネオンの光がカラフルな壁を一層派手に照らしていた。
なんだか知らないがこの施設はいちいちどことなく退廃的な雰囲気を醸している。

レーンをまじまじと眺めて思いつめた。中学からゲーセンに入り浸り
不埒な少年時代を過ごした私だったが、実はボーリングはほとんどやったことがなかった。
たぶん人生で2,3回くらいなのだ。そこいらの学生のイメージと変わらず遊び呆けていたが
なぜかボーリングに行く機会がほとんどなかった。そうこうしているうちに
大学生になっちまい、いよいよボーリングとほぼ関わらずに成人した。

そもそもボーリングに対するイメージは最低だった。それは小学生の頃の
軟弱な寂しき思い出に由来する。低学年の頃、私は初めてボーリングにつれていかれた。
背の順に並んで前から数えた方が早かった私にとって鉛のようなボーリング玉は
あまりに巨大で威圧感のある物体だった。

当時はジュニアレーンと言われるいわゆるガーターにならないような
生易しいレーンは存在していなかった。案の定、大きな玉は子供の小さな手から
零れ落ちて転がり暗黒へと続く溝へとすーっと吸い込まれていった。
ピンを倒すという至極単純なルールは小さかった私にも分かっていた。
一本も倒せなかったという事実は子供の安い自尊心を傷つけるには十分だったらしい。
泣きじゃくってボーリングなどしたくないとはっきりと断言した記憶が片隅にあった。

もともと運動神経も悪い私はその小さい頃の記憶が抜けていなかったこともあって、
できないと決めつけていた節があった。


そんな情けない事情もあってボーリングはほとんど初めてに近い状態でやることになった。
とりあえずシューズを借りて、適当にゲームを始めた。
ボールを持って見ると何ポンドの玉だか忘れたが流石にもう軽々持てる。

第一投はやはり明後日の方向へ。ガーター。そりゃそうだ。
いきなりうまく投げられれば苦労しない。だがめげない、しょげない。もう子供ではない。
友人のアドバイスを参考に重めの玉にしたり、投げ方を教えてもらううちに
ストライクとはいかないが、8本も倒せるようになった。といってもスコアは
糞みたいなもんだったが、あの頃とは違って楽しかった。

恰幅の彼はここでも珍事を起こしていた。彼が投げたあと必ずといっていいほど
スコアエラーを起こすのだ。何がいけないのかわからないがきっと「空海の水」を
あんな使い方をしたから罰が当たっているのだと思うことにした。

しかし今思い返してみるとよく三日目のほとんど眠っていない状態で
夜中に遊んでいたと思う。一種のサイヤ状態というか限界を超えると
割とどうにでもなるものなのだろう。

ボーリングを終えて帰り支度をする頃には既に日付は変わろうとしていた。
8月13日すなわち4日目に突入だ。
しかしそんな感慨実はどうでもいい。この「不夜城」まったく寝させる気がない。
鋼鉄のロデオがもう帰るのかと言わんばかりに見下ろしてくる。

寝床を探さなければ。できればちゃんと眠れる「漫画喫茶」がいい。
あるのだろうか。この時間から探すのは苦痛だ。
何よりまたあの長い帰り道を駅まで戻らねばならない。

最後に頼れるのは己の根性だけである。
振り返ると不夜城はまばゆい光を湛えていた。
「最初は疑ってすまなかった。」と思った。疲労の代わりに楽しい時間をくれた。

夜の帳に妙な寂しさを感じながら駅の方へつま先を向けた。


デイドリームビリーバー。

また独りよがりな日記である。個人的な手記だ。
非公開日記設定ができないので読み飛ばしてほしい。

ある未来を知ってしまった。
おれにできることは自分のできることと、やらねばならぬことをして
いつも通り平然と時が過ぎるのを待つしかない。
「その日」が来るのはいつか分からない。

ただその日が来るまでいつも通りでいようと思う。
そしてその未来の先で自分を誇れるように将来を見据えよう。
それがおれにできるせめてもの償いなのだろうか。

一番知りたい、大切なことへの回答はどこにも載っていない。
自分の頭の中ですら答えが作れないことがこの世にあることを知った。

ずっと前からなんとなく分かっていたことなのに、どこかで覚悟していたのに、
当たり前だったものがなくなることに気付いたときは、
頭が白くなって実際は覚悟なんかできていなかった。
たやすく覚悟しようとしていた自分をただここに恥じる。

冷たい現実を目の当たりしたとき人は認める、認めないとか、
信じる、信じないとかそんな二分法を頭に描くのではなく
ただそこに茫然と立ちすくみ夢心地になってしまうことを知った。

現実を知っても未だにおれは白昼夢を見ようとしている。
このぼんやりとした夢はしばらく覚ますことはできそうにない。


都会と雑踏の確率支配

今日、新宿から横浜に帰ってきてスタコラと歩いていたら、
橋の上でゲロをして人がぐったりしている
ところにお巡りさんが3人くらい取り囲んでいた。

思い切り通りのど真ん中で倒れていたものだから目立っていた。
いったい何があったのだろうかと気になった。

以前にはスクランブル交差点でタクシーとトラックが事故を
起したらしく言い合いが始まり、警察官が駆けつけ宥めているところなども見た。

都会では芸能人を見る確率も高いが、事故をみかける確率も高い。
そういう事件現場を見る度に人口が多いと母数も大きくなり、
あらゆることに遭遇する確率が高くなるという単純な数の原理を感じる。

関東圏に住んでから本当に色々刺激が多く、様々なものや機会が手に入り、
面白いことも多いが、一方でそういう事件や椿事に大して別段
何も思わなくなりつつある自分がいることに気づく。
事件も目撃回数が多くなれば慣れて当たり前のことになり麻痺してくる。
刺激も同じで、慣れればもっと面白いことはないかと貪欲になっていく。

都会にはそういった螺旋的な構造が見え隠れしており、
気にするとキリがなくなるので、どこかで
情報をシャットアウトしなくてはならない場面が出てくるように思える。

情報化社会ではなくとっくに情報社会になっている日本の都会部では
気にしなくてはならないことと、気にしなくてもいいことの線引きの仕方が
多様化し、境界線は曖昧になっている。

以前にでかい横断歩道のど真ん中でおじいちゃんの
こいでいたチャリンコが転倒したところに遭遇したことがある。
銭湯に行こうとしていたのか、ゼブラゾーンの中にカゴに入っていた洗面用具が
コロコロと転がり散らばったのだ。よろよろとしていてそんなに足腰が丈夫には
見えないじいちゃんだった。自転車を立て直すにも一苦労しそうな感じだったので
おれはすぐさま駆けつけて自転車を立てて、洗面用具を拾いカゴに入れた。
「大丈夫、大丈夫…」とそのじいちゃんは言っていたが手伝ってなければ
恐らく信号は赤になっていたと思う。

親切にしたことを自慢するために書いているわけではない。
一番気になったのは誰も手伝おうとせずそそくさと皆、横断歩道を渡っていったのだ。
そのとき横断歩道を渡っていた人の数は相当なものだったと思う。
大きな横断歩道だったので最低でも2,30人はいたと思う。

その中の誰も手を差し伸べなかったことに憤りとか悲しみよりも
単純に疑問が残った。数の原理で言えば助ける人が増えるんじゃないのか?
と思ったからだ。その実はそうではなく実際は田舎よりも助ける人はいないのだ。

確かに大きな市街地を歩いていればコケる人は山ほどいるのかもしれない。
でも数が多くて日常茶飯事だから助けていたらキリがないという
道理は明らかにおかしいと思う。そこらへんの感覚まで数に飲み込まれて
麻痺してしまうのは人間として悲しいことだと思う。

人間の不可分で不合理な領域がどんどんなくなっていって
デジタル的な人間を量産しているのは都会と雑踏の悪い側面ではないだろうか。


・・・

至極独りよがりな文章になってしまうことを日記ということでお許しいただきたい。

最近考えても考えても決めることが出来ないことがある。
自分のことならそこまで考えあぐねることなく色々決めてきた。

でもその決断によって出る影響が自分だけの問題ではないとき、
おれは途端に迷ってしまう。迷路を彷徨うようだ。
自分はこうしたいと思っていても現実問題そうできるかは別だ。
一人で生きているわけじゃないということを今更ながら最近強く感じるようになった。
本当にあまりに甘っちょろくて自分に対して反吐が出る。
歯を食いしばらなければならない。

恩や情と実や利。
この二律背反のジレンマがこんなに重たいものだと思わなかった。
何かをとることは何かを捨てなければならない。
天秤でその物事の重さを比べるように単純に物事を決められたらいいと思う。
でも人の心の中にある天秤は常に自己と環境によって歪められている。
そんな歪んだ秤に乗せるにはあまりに複雑で難しいことがある。

乗せた瞬間その秤はぐらつき自分の体までも震わせる。
その揺れが起こす波紋によってただぼんやりとした得体のしれない
不安が頭に広がるばかりだ。

やってみなければ、起きてみなければ実際は確かにわからない。
誰にも答は見つけられないが、決めなければならない。
財源はないが日本を立て直す計画はとにかく立てなければならないのと一緒だ。
時間はやはりあまりに残酷でそしてあまりに優しいものだ。

せめてもう少し時間が欲しい。
何かを決めるにはあまりに時間が足りない。あまりに力が足りない。
無力感、焦燥感。そんな感覚を研ぎ澄ましても意味はないのに
どんどん鋭くなって心を突いてくる。

せめてもう少し時間が欲しい。


今期のゲック

今クールの月9、ガリレオ面白い。原作とはまた違った感覚で楽しめて面白い。

一話完結で見やすいし、まとまりもいいと思う。
謎が解けたとき湯川があたりに数式を書きまくるという
演出が過剰演出気味だけどそこもなんかわかりやすくていい。

本はいつでもぱっと開いて自分のペースで読めるし、筆者もまた読者にどのように
読み進めてもらうかということを綿密に計算して執筆していると思うが、
ドラマの場合は一時間と決まっている。
その枠内でいかに見る者に印象付けて、飽きさせずテンポ良く話を
進めていくのかということに関しては本よりも数倍コントロールが難しいものだろう。

ということを考えてみるとおれが好きなドラマはだいたい
ほとんど一話完結型のドラマだということに気がつく。
最近だと「セクシーボイスアンドロボ」とか、押しも押されぬ
推理三谷ドラマ「古畑任三郎」は何度も見るほど大好きだし、
「カバチタレ!」も面白かった。海外推理ドラマの「モンク」もそうだ。
一話完全完結ではなく、大筋としては一話では語られず全体にまたがっている
内容を含んでいる場合もあるし、二話完結の場合もある。

しかしやはり比べてみると、よほど登場人物のキャラクター性と
ストーリーが魅力的でない限り全話完結型で食い入るように
見たドラマがあったか殆ど記憶がない。

誰だってそうだと思うが、よほど好きな人間でなければ
頻繁に傍にいたらなんとなく人間関係は膠着していくことも多い。
そもそも気に入った人間でなければ頻繁に会うこともないだろう。

おれの場合それと一緒で全話完結のドラマを見ようと思うと
必ずどっかで「なんとなく読めたからま、いっか!」となるか、
そうでなくても一話二話見るのを忘れて「話わかんなくなったからいいか!」となってしまう。
録画しておけばいいだろうと言われればそれまでだが、
録画も忘れるか、撮ったとしても見ずにそのまんまほったらかしで
いつのまにかその上に別の番組を録画してしまうということになってしまう。
それだったら文庫で原作読むかとなってしまうことが多い。
実は映画もそういうパターンが多い。

何としてでも見逃したくないと思えるドラマは
やはり一話完結型のものがおれにとってはその比率が高い。

毎回見るとき新鮮な気持ちになれるというのは大きい。
しかし加えて主人公たちが毎回色々な人と
関わりを持ち、接することで、主人公自ら自分のことを語らずとも
「ああこういう人なのねー」とか「いやこんな一面もあるキャラクターなのか」
とだんだん分かって浮き彫りになっていくところが非常に面白いと感じるのだ。

なんだか主人公自らが「おれはこうしたいんだ!!こうするんだ!」
「おれは今悩んでるどうしたらいいんだろう…」と匂わせてくるドラマは苦手だ。
押しつけがましく感じてしまうからだと思う。
やはりその人物のことを語らせずとも感じ取らせるような
魅力的なキャラクターの演出のある話の方がかっこいいと思う。

「ドラマ」なのだからリアルにこだわる必要はないと思う。
ちょっと熱くて臭くてダサイかな?くらいの方がおれは楽しい。


ファティック・コミュニケーション

ジャポニカロゴスとかNHK講座などに出演している金田一秀穂氏の
話の中で面白い言葉を聞いた。

「ファティック」という言葉なのだが言語学における専門用語らしい。
単語本来の意味自体は「交感的な; 儀礼的な, 社交上の」という意味である。

個人的な解釈なので自身はないが言語学で語られる「ファティック」とは
犬の遠吠えのようなものなど、とにかく何らかの音を発する行為であり、
すなわち自分の存在を他の同じ種族の仲間に知らせる本能的行為のことらしい。

自分が「ここにいるぞ」と知らせることは、群れをなしたり、種族繁栄をするためには
メリットある行為に思えるが、良いことばかりではなく天敵にも
自分の位置を知らせてしまうため非常にリスキーな面も含んでいる行為なのだ。


それが人間の間でも行われているというものだ。
確かに言われてみればそうかもなぁと思うことが多い。

携帯電話やPCによるメールや電話でたわいもない世間話をすることや、
話までも至らずただ「おう!」と一言送ることでもファティックとしては十分なのだ。
とにかく自分がここに生存しているぞ、ということが相手に伝わればそれでいいということだ。

つまり話している内容や言葉には特に際立った意味がないのが人間の
言語コミュニケーションにおけるファティックの特徴であると言うのだ。

電車の中でも教室でも街中でも確かに親指を上下左右に別の生き物のように
動かしてメールを打っている人は多い。中には本当に重要で必要な
情報を交信している人もいるだろう。しかしその大半はおそらく待ち合わせの連絡、
特に重要ではない会話、特に今すぐに必要のない会話だったりするだろう。

そう考えると人間は動物の中で実はファティックを最も盛んに行っている
種族なのかもしれないなという気がしてくる。

確かに言葉というものは「言葉尻に捉われる」だの「言葉の綾」とか
言っていつも誤解を招く危険がある。誤解までいかなくても正確に寸分違わず
その人の考えていることを別の人に伝えることは不可能である。

そんな難しく気持ちを伝えようとするよりもただ「元気でやっているよ。」という言葉に
何よりも人は安心しているし、自分も「元気でやっている」かどうか
他人に少しは知ってもらいたいと心のどこか思っているはずなのだ。

「元気でやっている」というのはつまり「生きている」という意味に置き換えられると思う。
人の人生は十人十色、多種多様で一人として同じ人生のものはいないが、
必ず死ぬという宿命を人が背負っている限り「生」に関しては間違いなく共通して
体感している万人共通の感覚なのだ。だから「元気?、最近どう?」と聞かずには
いられないのだと思う。「生きている」かどうかは間違いなく同じ認識を皆しているからだ。

ただ野生の動物のファティックと徹底的に違うのは声を発したり、相手に何かの合図を
送ったからといって人間は天敵に襲われることはまずありえないことだ。
つまりほぼリスクなくこれが行えるのである。加えて現代はコンピュータによって効率的、
というよりも気負いせず、何の苦労も危機感もなくファティックできる時代だ。

昔は電話するか手紙を書くしかなかった。電話も手紙も天敵に襲われるリスクは
もちろんないが、それなりの気負いとエネルギーがいる。少なくともおれはそうだ。
おいそれと軽い気持ちで手紙を書くことはできない。

「私はここに生きている」ということを何かしらの使命感やエネルギーを持って伝えるのと、
ほぼ無意識的にモールス信号のように機械的に伝えるのでは
ファティックに込められた生の交信の強さはまったく異なってくると思う。
意味的な問題ではなく、単純に「強弱」という感覚的問題である。

そうでなければ電気信号で皆「つながっている」はずなのに
これほど孤独感が問題視されないはずなのだ。

ファティックが強く互いに行われたとき意味や理解を超えた連帯感が生まれるというのは
何となくわかる。それはスポーツとかでパスがすげーうまくいったときとか連携できたときに
感じる喜びに似ている。

だからEメールの文字によるファティックにも確かにその効果はあるだろうが
やはり何か薄いものを感じるというのは当たり前のことのような気がする。
だから告白はメールじゃだめだ!とか大事な連絡は電話とか実際に会って話すべきだ!
という確固たる確信めいたルールが通用しているのだと思う。

でもそれが「何でそうしなければならないんだ?」と聞かれれば
たぶん具体的に答えられないはずだ。無理に回答するとすれば「当り前のことだろう」とか
「それが人としての社会のマナー、礼儀」だという答えが返ってくるだろう。

ファティックにおける内容自体に意味はなく、手段による交信の強さの方が重要なのだ。
ただ「そうして伝える、知らせるという行為」が大事だから、
そして本能的なものだからと考えれば色々交わしている特にたわいもない
会話がいかに大切かということが見えてくる。


疲労感と充実感?

一日二食健康法のホームページに書いてあって最近ふと気になったこと。
それはこれだけの健康ブームなのに現代人は疲れているということだ。

そのホームページでは食事を一日二食にすることで
その「疲れ」を改善しようとするものだ。ここでは詳しく書かないけれども
気になる人は検索していただきたい。

サプリメントを飲み、健康に良いものを食べているはずなのに
確かに今の世の中「疲れやすい、疲れた」という言葉をよく耳にする。
宣伝広告で「健康!健康!栄養食品!そして快適な暮らし!」と
囃し立てられているはずなのに現代人は疲れている。
いやむしろだからかもしれないが。

友人の間でもそしておれも気がつくと「疲れた」と
口にしているような気がする。それでもなるべくこの「疲れた」という
言葉は口にしないようにしているつもりだ。それでもときに漏れてしまう。

思うに「疲れた」はほぼ挨拶、間投詞的なものになっている。
バイトが終わって飲みに行く時、旅行に出て宿泊地に着いたとき、
旅行から帰ってきたとき、何かイベントが終わったときなど、
労働、レジャー問わず何かの節目には「疲れたぁ~~!」っと
叫んでいることはないかと思い返すと枚挙に暇がない。

よくよく考えてみると本当に疲れたときは気づいたらもう寝ている。
「疲れた~ぁ!」と叫ぶ気力すらないのだ。
だから「疲れた」と周りに意識的に言えるうちはまだ疲れていないはずなのだ。


日本では「過労死」が問題になって久しいが、"Karoshi"は"Tsunami"(津波)と
同じく外国で通じる数少ない日本特有の事象概念である。
それだけ日本人は「働く」国民だということは諸外国に知れ渡っているようである。
ワーカホリックいわゆる仕事中毒とか揶揄されることも少なくない。

日本では働くことが美徳であるという風習が続いてきている。
今も間違いなくその風潮はある。これだけ「ニート」が騒ぎ立てられるのも
「働いていない」ということが罪であるという認識すらも少なからず
見受けられる証拠だろう。

ニートを擁護するわけではないが、働いていない人間は「最低」なのだろうか?
確かに社会意識は働いている人よりも劣っている可能性は高いだろう。
でも実はただそれだけではないだろうか。
街行く人を見てあいつはニートだ、なんてわかりようがないし、
ニートだろうがなんだろうが直接的には個人には迷惑をかけてはいない。

むしろそれどころか会社に勤めている立派な大人でも犯罪を起こす。
犯罪までいかなくとも社会性のない会社員や、
子供がいるものでさえ、モンスターペアレントと呼ばれ、
ただでさえそれらの人間が問題になっているのである。
そう考えると確かにあくせく動いて「疲れる」ということが
必ずしも至上の徳であるとはいえないのは、当たり前のことだが、分かってくる。

それでも「疲れる」という言葉が広く発せられている。
そのことを踏まえると思想的に風習的に何かをして「疲労すること」は人生、生活が
充実している、という風に捉えられているのはやはり日本では一般的な気がする。

然るに「疲れたぁ~」というセリフからマイナスのイメージをあまり感じない。
むしろ意識的・無意識的いずれかは分からないが
「充実しているぞぉ~」ということをこの4文字に託しているような気がしてならない。

最後に同じことを記してしまうが、
本当に何かに疲弊している人は言葉を発しないものであると思う。
だから「疲れた」を言えるうちはまだ幸せなほうだとおれは思っている。


引き出しアルバム

夜帰ってきて探し物があったので机の引き出しをかき回した。
おれの机は父ちゃんの昔務めていた会社からかっぱらった
昔の鉄製のグレーの机ででっかく重たい。
だから少し中が錆びついてきている。

左右に大中小の引き出しが3個ずつと真中に
広く浅い引き出しが1個計7個の引き出しがついている。
左右の引き出しはまとめて鍵もかけられるようになっている。
中学時代は見られたくないものを入れて鍵をかけたものだった。

とにかく色々なものが入っている。
お年玉袋とか、社会保険庁からのお知らせ通知だとか、
昔とった証明写真の残りだとか、タバコ、定規、CD、DVD、ゲーム
ペン、鉛筆、ガラクタ、ぬいぐるみ…列挙しきれないほどだ。

引っ掻きまわして一つずつモノをどけていっても
一向に探しているものは見つからなかった。
その代りにどんどん懐かしいモノが出てくるのである。
中学時代にとったプリクラやら、手紙やら、生徒手帳、形見のコインとか
色々出てきたのだった。ここにあったのかよ!と心の中で叫んだ。

なんだかそれをじっと眺めていたら、思い出のビデオの再生ボタンを
ふいに押されたようにお決まり通りにジーンと
センチメンタルな気分になってしまった。
探しものとは全然関係なくいつのまにか整理整頓していた。
捨てられるものは確かにたくさんあった。
紙切れとかタグとか領収書とか業務報告書とかをどさっと捨てた。

でもやはり捨てられないものもたくさんあった。
大事なものは大事に引出しのまた奥にしまった。そしてそっと引き出しを閉めた。
数ヶ月後か数年後かまだ分からないが引き出しをまた開けたとき
どんな気持ちでこの品々を眺めるのだろう。

思い出は心の中に留めとけばいいのさ、といつも格好つけていたし、
「モノより思い出」かもしれないけどモノによって蘇る思い出もやっぱり悪くないなと思う。


ところで結局探しものは見つからなかった。
どこにあるか血眼になって探し損ねて冷や汗をかいた。

しばらくして落ち着いて聞いてみたら、母ちゃんにそれを
貸していたということを忘れていてまったく別の場所にしまわれていた。
片付けかたを間違って忘れてしまうと思い出もクソもねーなとまた
一方でそんな自分のことをマヌケに思うのであった。


ケチャラー

朝起きてスパゲティナポリタンとチキンライスを作った。
それも結構な量だ。何故だろう。そこにケチャップがあったからだ。
真っ赤じゃないか!とさすがに突っ込まれた。

トマトは嫌いだけどケチャップは平気だぜって人が結構いる。
おれもそんなケチャラーの一人だった。
ここ数年トマトが突然食べれるようになり、寧ろ好物になった。

人の好みは変わるというが確かにここにきて
好きな食べ物が増えるというのはなかなか嬉しいことだ。
じゃあ、今のところはないが、逆に嫌いになる食べ物もあるのだろうか。

そして明日もチキンライスが待っている。
ケチャップは旨い。だが気づいてしまった。
ケチャップの甘味と酸味のコンビネーションは
おれにとって飽きる味だということを。

しょうがないから明日はオムライス的なやつにしよう。

チキンライスをさらに料理する方法を知っている方はご教授よろしくです。


ターニングポイント

こういう風に書くと人生最大の転換期という感じがして
大袈裟だと思うけれども、そういった大それたものだけじゃなくて
人生には何かきっかけになる「とき」が必ずあると思う。

今年はどうやら自分にとってそういう年のようだ。
就職してこれから社会人になるという意味で転換期なのは当たり前のことだが、
それ以外にも色々と自分の身に起きたことをじっくりと考えると2007年という
この年はかなり「濃い」年なのは間違いない。

そこからどういう風に自分が何を芯に置いて生きていくのか決断力が
試されているように思う。おれにとって自分をみつめるのは
非常にしんどいことだ。自分のことは自分がよく知っている分、
弱い部分、ダメな部分がよく見えるからだ。
そういう部分を今克服できるか試されているように感じる。

「指導者は『力』を行使する人間のことではない、
指導者は最も重要な『決断』を下す人間のことだ。」
というあるセリフを思い出す。
あれこれ悩むのは何かを決めることができないからだと思う。
たった一つのことを選択するということは非常に困難なことだ。
選択することは何かを「捨てる」ことだからだと思う。

「捨てる決意」がおれにできるのか今試されてるような気がする。


乗り遅れた結果

東京に出て夜遅くなった。雑踏に茫然と立って時計に
目をやると久しぶりに終電を逃していた。
夜を凌ぐために夏の旅でその密の味を知った
高級系の漫画喫茶でやりすごすことにした。

相変わらずなんでもそろっている。夜は長い。何を読むか悩んだ。
クラッシュアイスとアイスティーをグラスにぶち込み、棚と棚の間をぶらつく。
ずらっと並ぶ背表紙を眺めていると久しぶりに読みたくなった漫画があった。

それは「ジョジョの奇妙な冒険」だった。
おれが生まれて一年後の1987年に連載されてから
今も「ウルジャン」を賑わせてる作品だ。
それにしても荒木飛呂彦は本当に年をとらない。
さすが自分のことを「波紋使い」だと言うだけのことはあると思う。

第一部から読みかえすと80巻以上に渡る超巨編なので
個人的にアツい第三部から読みかえすことにした。
ジョジョは絵がとにかく強烈だ。骨格を無視した体勢だと良く指摘されている。
確かに奇妙なポージングだ。そしてとにかく「闘い」だらけだ。
とにかく次から次へと新手がジョジョたちを襲ってくる。

ジョジョファンにとっては今更言うまでもないことだと思うが、
その「敵」が魅力的なのがジョジョの一番面白いところじゃないかと思う。
ストーリー上ただのやられ役のような敵はほとんど出てこない。
ひとりひとりが強敵だし自分なりのポリシーと信念や執念を持って闘いを挑んでくる。

荒木さんが第一巻のカバーの文章で
「この作品のテーマは『生きること』です、…(中略)…
人間と人間以外の闘いを通して人間賛歌をうたっていきたいと思います。」
と宣言した通り「死ぬこと」、そして「受け継がれること」、
そしてそれを背負って「生きること」。
これが輪廻となって転生していく気持のよい作品だと思う。

ただひたすら喉の乾きを癒すように電車が動き出すまで読み耽った。
なんか忘れがちだったことを取り戻したような気がする。
時間に遅れたことでいい時間を過ごせた。
終電を逃すのもたまには悪くない。


文体更新ver.2.1

これまで俗に言う「です・ます」調の文体で書いてきた。
これからは特にそうやって丁寧語の文体で意識して書くのをやめようと思う。

最近人に指摘されて気づいたことなのだが、
携帯のメールで知人と連絡を交わすとき
かなりの確率で「です・ます」調の文体で文章を打っている。
かなり親しい友人でも自然と丁寧な文体になることが多いのだ。
電話をしていてもなぜか敬語になることが多いのだ。

何故なのか頭をひねって見るとそれは当たり前だが
「距離」が原因ではないかと思い立った。
人と真近で喋っているときは目上の人を除いては
まず敬語を使っていない。それどころかかなり汚らしい口調になる。

電話にしてもメールにしても対話している相手は遠くにいる。
意識しているわけではないがここにはいない相手と
喋っているという「距離感」はおれに敬語を使わせているように思える。

敬語を使うということは相手に敬意を表明しているというのは
事実なのだがこの前何度かあった相手にいつものように
丁寧語のメールを送り、後日会ったときに「なんでそんなに丁寧なの?」と
冷たい印象があるから敬語じゃなくていいよと指摘された。

中学生が読者層の雑誌の中に友達の平均人数を
アンケート調査したものがあった。それによると確か34人くらいだったと思う。
自分が中学生のときどんなに多く見てもその半分くらいしか
「友達」と呼べる人はいなかったと思う。これはおれがただ少ないのかもしれないし、
今はいろいろなネットワークあるからかもしれないが、中学生のときに
約一クラス分の「友達」を作れるのか疑問を感じずにはいられない。

どこまで接すれば親しき仲なのか考えたことはほとんどなかった。
というかそれは「人による」と言って片付いてしまう問題だからだろう。
しかし携帯のメモリにただ名前が入っているだけの人物は
友達なのだろうか。それはデータじゃないのかと思う。
友達でなくなった人間をメモリから消して線を引くという人がいるという。
勿論それはそれで人間関係の構築の仕方であると思う。
ただおれはそのことに妙な違和感を抱いてしまう。

おれが丁寧語でメールを送って冷たい印象を与えたということは
まだ「他人」という壁を作っているというサインを送ったという風に
読み替えることもできる。これまでそこまでこの印象のことを
深く考えたことはなかったが、確かにそう感じ取られているのだろう。

もともと人とは距離をとっている性格だと自己分析しているが
それは同時に距離を詰めると相手に不快感を与えるんじゃないかと
どこか臆病になっているともいえる。おれ自身はなんらかの形で
その距離を詰められても不快感は抱いたことはない。

ならば一歩踏み込んで「です・ます」をとっぱらてもいいではないか。
この文章を読んで貰っている「誰か」との距離を縮めたいと思うからだ。

「言葉」は思っているよりもやはり大きな力を持っている。
「言葉」なしでは欲求を満たすことすら危うい時代に生きている自分にとって
少しでもこの根源的な力の意味を考えることは無駄ではないと思う。

文体を更新してみよう。


やる気

なんでもそうですがやる気がないとなんにもできない。
どうも最近そんなバイオリズムの低下を感じます。
やらなきゃならんことがあるのにどうも手につかない。

とある月9ドラマのじいちゃんのセリフの中にこんなのがあります。
「『明日やろう』は『馬鹿やろう』だ!」
どーんっと胸に入ってくる良いセリフです。
しかし明日やればいっか!って思ってしまうことは必ずあるものです。

麻雀漫画「アカギ」の中にアカギが挑戦者「浦部」に対する人間考察の中で
「あいつの本質は「保留」にある。」と言い捨てるシーンがあります。
大事な局面や決断で保留してしまった浦部をアカギは打ち破ります。
アカギの同僚だった治はそれを見て、「浦部だけじゃなく、大抵の人間は
『保留』して、「今」を薄めて生きてしまうものだ」と嘆きます。

「明日から」とか「保留」とか「いつか」とか
確かにそんな言葉で明らかにそのままやらないで終わったことが
今までの人生の中であるもんだなっとその度に自分を振り返ります。
大事なのは明らかに「今」なのに明日を見てほっとしてしまうんです。
まだ時間があるからいいかって思うんですよね。

少なくとも後悔してしまう「保留」はしちゃだめだなって思います。
生きてりゃ必ず後悔することはあると思いますが、
後になってみなきゃわかんないこともあるのもまた事実。

今を後悔しないようにやる気だして一つずつ潰していこうと思います。


季節の変わり目

咳がごっほごっほ出ます。鼻も少々。
秋雨に打たれたせいか風邪ひいたみたいです。
ちゃんと飯食って動いて寝てても風邪引くもんですねぇ。

窓を開けると秋の冷たい風が入り込んできます。
空気も心なしか乾燥してきているような気がします。

最近ちょっと大きな心配事が増えまして、気持ちが動揺しています。
病は気からとはよく言いますが、不安な気持ちがそのまま
体に影響を与えているようです。

人は当たり前だと思っていることは
本当にその重要さに気付かないものです。
わかっていても気づかないフリしてしまうものです。

それが自分ではどうすることもできないことなら尚更です。
ただ祈ることしかできない自分に無力さを感じます。
人間は神さまじゃないなって当たり前のことをまた実感します。

ちょっと暗くなっちまいましたね。
落ち込むときこそ明るく生きなきゃなぁって思います。


勿怪

"もっけ"と読みます。熊倉隆敏デビュー作、
現在月刊アフタヌーンに隔月連載されている妖怪漫画です。
単行本をちょろちょろと読んでいて
面白いなぁと思っていたらアニメ化されました!

http://avexmovie.jp/lineup/mokke/

東京MXテレビ、朝日系列のABCテレビ、名古屋のメーテレ-NBNという、
かなりローカルな局でしか残念ながら放送されません。
なので見れる人が限られると思います。

妖怪漫画といってもおどろおどろしい感じではなく、
妖怪と共存している片田舎でのお話です。
といってもそこに住んでいる人皆が共存しているわけではなく、
妖怪が見える「見鬼(けんき)」である高校生の姉、静流と
霊などが憑きやすい「憑坐(よりまし)」の小学生の妹、瑞生という
二人の姉妹が日常生活に現れる非日常の妖怪たちと
様々な対話や対処をしながら成長していく姿を描いた漫画です。

瑞生たちのおじいちゃんは妖怪を相手に説得したり払ったりして
一般人を助ける商売をしている「拝み屋」という人で、
両親から姉妹を預かっています。じいちゃんは瑞生たちに
妖怪とどのように接していくかということを教えていくことを通して
人間の基本的な生き方や性を諭していきます。

派手なストーリー展開や演出はないものの
寓話や説話的な要素が散りばめられていて絵本を
読んでるような懐かしい気持ちになります。
幼少のころに少々の心霊体験がありましたが
そういった頃のことも思い出したりします。

妖怪の話は民俗学的な見地から色々語られていますが
じいちゃんの話の中にも「ハレとケ」でおなじみの
民俗学者柳田國男の名前が出てきたりと雑学や教養も
得られて結構ためになる漫画です。荒俣宏も絶賛だとか。

「ただびくびく恐れているだけでは自分の身すら守れねぇぞ」
と厳しく姉に諭すじいちゃんですが、本当は姉妹の成長を見守る
心の優しい、色々なことを達観している人物像で憧れます。

なんとなくちょっとした癒し系漫画の要素もあります。
都会に住んでると忘れるようなことも思い出させてくれます。

でも都会には都会の妖怪がきっとどこかにいるんでしょうね。
人あるところに妖怪ありってなわけです。


もっけ



遊び疲れ

三連休をいいことに連続で呑み食いしすぎました。
おかげで時間感覚がむちゃくちゃに。

友達の家でぐだぐだ喋ってゲームして飲んで食って騒いでってのは
なんとなく久し振りでした。年を重ねるにつれてそういう
たわいもない遊び方って忘れてしまうのかなって思うと寂しいですが、

そういう時間をつくるってのは忘れたくないもんですね。
学生最後なんだなぁって改めて帰り道ぼーっと考えてしまいました。

どこにいっても学生と社会人は違うのだから自覚を持てと云々
言われるものですが、学生の時分のときの気持ちを捨てろって
言う風にもとれるものでそれはそれで大切なことを社会人になると
同時に切り捨てるのはもったいないことだと思います。

基本的にどんな環境であれ、信頼関係を築くことが
肝要だというのなら、学生時代のお互い笑って踏ん張ってきた
友人関係が無駄なんてこたぁ決してないと思います。

喧嘩したり、くだらねーことで笑ったり、罵ったり、誤解したりできる
「人間」が側にいるってことが糧だということを忘れちゃいけねーですな。


ともだちって…いったい。

21century Boy


以前も書きましたが、8年間続いた科学サスペンス漫画、
「20世紀少年~21世紀少年」。ついに単行本完結です。
「21世紀少年 下巻」。全部で24巻に及ぶ大作でした。

まだ出たばかりなのでここでは決定的なネタバレはせずぼかします。
ですが…まっさらな状態でお読みすることをお勧めします。

40年余りの時とともに語られる、主人公ケンジをとりまく
幼いころの思い出とその「ともだち」が起こす全世界を巻き込む科学テロ事件。
失われてゆく無数の命と、少しずつ浮かび上がっていく「ともだち」との
イタズラの記憶。犯人「ともだち」の本当の正体とはいったい…。

すべてここに完結です。実写映画化も決定しております。
実写劇場版デスノートが賑わいを見せた昨今、
果たしてこの20世紀少年はヒットを飛ばすことができるでしょうか。

すべてが決着したはずなのになぜかこの物悲しい感覚。
ともだちの顔わかりません。改めて時間があるときに読み返すつもりですが
なにせかなりのボリューム。ビックコミックス連載作品なので
普通の少年誌漫画よりも一冊一冊がヘビー。ちゃんと精読しないと
間違った解釈で読み進めてしまいます。

正直考察だけでものすごい議論が交わされる問題作な気がします。
最低の結末ともとれるし最高の結末ともとれる。
「ともだち」とは誰か?ではなく、
「ともだち」とは何か?といった哲学的な問いが絡んでる気がします。

しかし彼はいったい…素性もあまり語られなかった彼はいったい。
解釈によって作品の質自体が変わってしまう気がします。
考え凝り性のおれにとってはうーんと頭が痛い作品でした。

でもスリルとサスペンスと感動は味わえました。
実写版映画楽しみ。「カンナ」役いったい誰に決まるのでしょう。

実写版といえば「魔法先生ネギま!」の実写版ドラマ。
あれは黒歴史だ。いったいなんであれをやろうと思ったんだ。
逆に面白すぎる。気になって仕方がなくなる。
そういう戦略なのか…?

浦沢先生ワールドは難解ですな。


芸能ニュースの向こう側

沢尻エリカの女王様問題。世間を賑わせています。
スポニチに今と昔の比較写真がでかでかと載っていました。
一方は黒髪で天真爛漫な笑顔をまっすぐ振りまく姿。
一方は前髪にかかった金髪から冷たい視線をあてつける姿。
二つの顔が対照的に写し出されています。

21歳という年齢とか、プロの女優の立場とか色々な視点からの批判、
はたまたカリスマ性を貫こうとしたという称賛など賛否両論は
あって然りですが、とりあえずこの手のつっぱねは、
出る杭は打つ国民性をもつ日本からいって悪印象が強い模様。

礼儀常識の観点から言って明らかに態度が悪い。
というのは大多数の意見でおれもそうは思います。

ただイベント的に見ればなんとなく面白い。
もちろん当事者じゃないからこんないい加減な発言ができるのは承知しています。
だからおれは彼女がどう発言しようと特に良い悪いとか言う気も起きませんし
そんなことを言っても不毛な気がするのです。
21歳だからとかどんな職業だからといった立場の話はほとんど無意味にも思えます。
これだけ無数の人間がいればちょっとくらい礼儀知らずだったり
意図の読めない人間がいたって不思議じゃないからです。
むしろもっとそのことに諦観とか虚脱感を抱いている人が多いのではないかと思います。

何が面白いのかというと、アイドルという存在について考えたとき、
今のテレビの中の人の在り方、言い換えると
人々がどのようにテレビの中の人を見ているか、ということが少し見えてくるのです。

本当によくお世話になっています。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の
一部にこういう指摘が載っています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB

「『アイドル』と近いイメージの言葉に『スター』というものがある。
両者の違いは明確に定義できないが、スターは手の届かない『高嶺の花』なのに対し、
アイドルはより庶民性が高い存在という見方がある。
アイドルの庶民性を表現した『隣のお姉さん(のような)』という言葉もある。」

もちろんwikiは「みんな」が手を加えて完成させる百科事典なので
これが絶対的に正しいなんてことは言えません。
それは広辞苑にしてもあくまでもガイドラインのようなもので
絶対ではありません。言葉を明確に定義することはほぼ不可能です。
ただよく考えてみると確かにスターという言葉は使われなくなりました。
今では「にしきのあきら」と「高橋徹郎」くらいなもんです。

アイドルという言葉の移り変わりは上のリンクにて
詳しく言及されているのでここでは書きませんが、
大事なことは「絶対性」がなくなっているということではないでしょうか。
1959年の皇太子ご成婚パレード中継を皮きりにテレビは爆発的に
普及を見せました。だいたいどの家庭にも行き渡ると
最初のころはみな同じ番組を見て同じメディア観を持っていたと
考えられます。今ほど番組もメディアも多種多様ではなかったはずですから。

そうするとテレビの中にいる人はまさに全国民の目に映る存在だったのです。
それが「スター」だった。こう推論してスターとアイドルの違いを
おれなりに整理すればそれは絶対性の有無にあるように思うのです。
絶対性とは、文字通り老若男女問わず皆が知ってる、
「その人の名を聞けばああ、あの人ね。」
とほぼ全国民がイメージできるレベルの多数的知名度のことです。
この絶対性は同時に「高嶺の花」という手の届かない
遠い人のイメージも同時に生み出します。王政の原理と同じです。

「アイドルはトイレに行かない」という冗談めいたファン意識の言葉がありましたが
これが表していたのはこのときは絶対性がまだ確保されていたということです。
「今ここに映っているかわいらしい女の子は別の世界の生き物、
生きている次元が違う。」というニュアンスがこの言葉から読み取れます。
しかし今の時代この言葉はほとんど聞くことがありません。

時代は変化していきます。番組も色々なものが増えます。
バラエティ。クイズ。今ではいったいなんのジャンルの番組か説明するのも
難しいものが多々あります。それに情報を与えるものはテレビだけではなくなりました。
そうこうしているうちにテレビの中の人の私生活が暴かれていきます。
人は人なのだから我々と同じように生きているのは当然です。

アイドルという言葉も今では定義が曖昧です。とくにグラビアアイドルが
台頭してきてからはもはやそこらへんにいる女の子とテレビの中の
アイドルは私生活が露になり同列に語られるようになっています。
これはアイドルという言葉がもともと「隣のお姉さんのような」庶民性を含んでいたという
最初の指摘に合致します。派手な演出や格好をしたアイドルよりも
ナチュラルメイクの自然な女性の方が好まれる傾向はこのことを示唆しています。

今は手の届かないような絶対的な人物は
テレビの中にいないということに気付かされます。
一度テレビによって画一化された人々のメディア観から数十年経った今、
色々な価値観が生まれ容認され知ることができるようになったからです。

歌のうまいアイドルもいれば、オタクなアイドルもいれば、
演技のうまいアイドルもいるし、トークがうまいアイドルもいる。
バラドルとか~ドルという造語が多種多様に生み出されています。
それが今の時代なのです。一つの偶像を崇拝する時代は終焉を迎えます。

こういう様々なアイドルがいる環境とは、まさに自分たちがリアルに
生きている社会そのものです。その中から同じような価値観の、同じような思想の、
あるいはそれを容認できる、付き合いやすい人を見つけて徒党を組む。
コミュニティ形成の基本です。同じ原理でファンになれるアイドルを人は探します。

沢尻エリカの今回の問題発言は、テレビの中の
ただの出来事ではなく一般的に我々が体感する日常です。
生活していると、「目つき悪くて、こいつ態度悪いな。ムカツク。」
こんなことひと月に何回か経験しているはずです。
そこに重ね合わせてバッシングするのは当り前の所業なのです。

アイドルを好きになるのは、身近にいる人間を崇拝するよりも
誰からも批判も受けず誰の価値観にも影響を受けない
無制約の状態だからです。その人がメディアに露出する限り
半永久的にファンでいられるからです。
これを逆の状況から考えれば、批判も叱責も同じです。
たとえムカツク人間がいてもそうそう人は喧嘩をふっかけません。
あとあと面倒になるからです。ただテレビの中の人は別。
そういう職業なのだから批判されて当然という意識が一般的です。
日頃の理不尽な人間に対するバッシングが人気女優の
悪辣な態度と鏡合わせにダブり爆発しているように思えます。

これはもちろんインターネットの所業も大きいと思います。
前回の記事でも同じようなことを書いていますが、
無制約に発言できるこの場は、そういったスキャンダルバッシング、
あるいは盲目的称賛をするにはもってこいの環境です。
人々の日頃の欝憤というガス抜きにはいいのかもしれません。

大衆心理とアイドルの向こう側に何かもう一つの社会心理が
隠れているように思えてならない。
スポニチと睨めっこしてそんな感想を抱いた週末の朝なのでした。


天を突け

ガイナックス制作のアニメ。日曜朝八時半から放送していた
「天元突破グレンラガン」、撮っておいた最終回見ました。

http://www.gainax.co.jp/anime/gurren-lagann/

展開が早すぎでなかなかついていくのが
大変だったんですが面白かった。
なつかしい演出が多く、アツくてわかりやすいので
アニメを見てるなぁって感じがしました。

作品自体はよかったんですが「2ちゃんねる」の誹謗中傷文を受けて
制作社員がmixiでそれに過剰反応してしまったらしく問題になったらしい。
最終的にはプロデューサーが降板、兼任していた
取締役を辞任するまでに至ったようです。

インターネットでの陰口、中傷、罵詈雑言の問題はここ最近の出来事ではなく、
ずっと続いてきていることなので大して驚きもしなくなっています。
しかしテレビやメディアに携わる人間がこのような事件に
巻き込まれると問題が肥大化するケースが多いですね。

とにかくヤバイのはインターネットで公開されている文章は
クローズドコミュニティをもつmixiの場であろうとなんだろうと、
あらゆる人の目に晒されているんだということを認識していないことです。
たとえ認識しているとしても感情的になってしまえばそこで終わりなのです。
逆に不特定多数の人間が見ているということが、
誰も見てないんじゃないかという錯覚を起こしているような気もします。
しかも一瞬でコピペすれば問題の文章が記録として残ってしまうので、
隠蔽しようとしても一度火がついてしまえばそう簡単に沈静化しません。

最近はあまり見ていませんが「2ちゃんねる」というものを
利用してもうだいぶ経ちますが匿名掲示板にいる人たちを
どう捉えるのかという問題は頭が痛くなります。
「荒らし」は相手にせず、無視、というのは
どこの板でも適用されている暗黙のルールですが
耐えられない人もいると思います。だからと言って耐えられない人は
そういうメディアを利用してはいけないのか。
そんなことは誰にも強制できることではありません。

これまで人の心なんて大してよくわからなかったのですが
みんなが思ってることをインターネットを介して
吐き出せるようになってしまったので、
こういう問題は際限なく起こっていくような気がします。

人間心に思っていることをすべて吐露したら
どんなに醜いことになるか想像しただけでも恐ろしいことです。
インターネットがそういうもののはけ口になってしまうとは寂しいものです。

「グレンラガン」はテレ東にて毎週木曜日
26時15分から再放送決定だそうです。

作品自体ではなくそれを取り巻くゴシップやらスキャンダルの方が
最近取り沙汰されて賑わいを見せる傾向が強くてなんだか
興ざめすることも多いです。メディア業界に関わらず、
政治にしてもなんにしてもあらゆる面でそういう兆候が
見られるような気がします。

まっすぐ天を突くような気持ちの良い生き方したいもんです。


第2部:第1章:不夜城

八月十二日、午後六時三十八分、下関発、門司行きの電車は
その体をカタコトと揺らしながら男四人を運ぶ。ついに九州上陸だ。
私にとっては未踏の地だ。

車窓の風景は住宅地や工場を巡り巡って暗転した。トンネルに入ったようだ。
いよいよ九州だな、と周りに意気込みを訊ねてみるが、
さして盛り上がりはないようだ。
少々の長旅で少し疲れが皆にたまっているように見えた。
電車に日の光が一気に差し込んできた。
門司駅到着のアナウンスが澄んで聞こえてくる。

本州から九州上陸へ、その間はわずか七分ばかりのことであった。
門司駅は中継駅であり特に何も見当たらない。
辺りは夜の顔を見せつつあった。時計は七時を指している。
腕時計の日焼け後が出来たことに気づく。

門司駅から博多駅を目指す。博多に到着したとき
本当の意味での九州上陸だな、と思っていた。
門司博多間は鹿児島本線である。いよいよ九州での旅がここから始まる。
皆の元気も徐々に戻ってきていた。九州だ!ここは九州だ!と
当り前のことを、ただただ歓喜の声として口から漏らしていた。
門司から博多まではそう遠くはない。さっさと鹿児島本線に乗っかり、
約一時間余りで博多駅に到着した。

KC290038_博多看板


電車を降りると、博多ラーメンの看板が目に飛び込んできた。
駅の行先表示板に似せたその看板には「あつか」と「うまか」という
駅を指し示している洒落たペイントが施されている。いよいよやってきた。
博多駅はやはり大きい。九州の要だ。駅前も雑多な雰囲気を残しつつ
都会の姿を見せている。

KC290039_博多駅

KC290040_博多駅前通り


今日の寝床のことを考えて駅前をふらついていると、
赤い看板が目に飛び込んできた。ネットカフェ?漫画喫茶?
いずれの形態でもないその施設の名前が「レジャっぱ!」と
白抜きの文字で赤を下地に大きく書かれている。
その下にレジャー施設の種類が施設名と同じ調子で列挙されていた。
「ビリヤード、ダーツ、卓球、サッカー、ゲームセンター、サスケ、
ボーリング、ロデオ、ボールプール、サバゲー…サッカー…」。

とにかくものすごい数である。「サッカー」が二回書いてある。
間違いなのか、二か所あるのかわからない。
「サスケ」にいたっては表現上、問題が多々あるような気がしてならない。
サバイバルゲーム、通称「サバゲー」に加えて「ロデオ」もできるというのだ。

おかしい。普通の施設ではない。こんなヤバイ施設が
このあたりにあるのかということと、なんともこの怪しい雰囲気は
一瞬で我々の心を奪っていった。
「とりあえず後でここはいってみよう。気になって仕方がない。」
全会一致だ。

見慣れない土地を歩いているといつも以上に時間が
経つのは早いもので、はやいところ夕飯にありつく必要があった。
駅前の飲食店はそんなに遅くまではやっていない。
ホームにあった博多ラーメンの看板が目に焼き付いて離れなかった。

駅ビルをふらついていると最上階のフロアで首尾よく
まだ博多ラーメンの店が豚骨の匂いを散らしながら開店していた。
この匂いはたまらなかった。どんなに馨しいフレグランスの香りだろうと、
腹が減っているとこの匂いの誘惑に勝るものはない。
ライスと餃子のセットを頼み黒塗りのテーブルに着席して待つ。

この待っている時間もまた至福のときだ。匂いが近づいてきて
目の前に白い姿をしたラーメンがやってきた。
作る時の豚骨の鼻をつく匂いはしない。
出来上がったものは脂っこくなく上品なものである。

KC290041_博多ラーメン_新天地


関東での豚骨ラーメン、特にカップラーメンなどで販売されている類のものは
どれもかなり脂が強く濃いものが多いが、
本場ではそうではないということは知っていた。
やはりその情報は間違いではなかった。あっさりと食べることができた。
麺が細いので食べやすさも追求されているといった感じだ。

無事食事にありつけた一行は、ある場所まで戻ってきた。
あの謎の施設を示した赤い看板の前である。
場所を確認するために地図を見に来たのである。
どうにも大雑把な地図である。ホテルの通りを目印に行くということは
わかるのだが肝心のホテルがわからなかった。
とりあえずふらついてみるがウロウロするばかりだ。

落ち着いて見ると一本通りを間違えていたことがわかった。
分かってしまえばこっちのものである。
しかしどうもこの地図、縮尺がおかしい気がした。
地図上ではさほど駅から離れているようには見えないのだが、
通りを十分くらい歩いているうちに全体の半分くらいしか
来ていないことに気付いたのである。

「もしかして、結構遠いんじゃね?」
「だけど、もうここまで来ちまった、歩こうぜ。」
そんなやりとりをしているうちにどんどん道は暗くなり、
なんにもない路地へ入っていった。

「ここを曲がるのか?」
「ガソリンスタンドがあるんだから間違いない。」
辺りはかなり暗い。街灯という街灯もあまりない。
あのレジャーの種類からいって相当な施設だ、
という勝手な想像をしていた。それなのに辺りは住宅地と商業地の
狭間のエアポケットといった感じの場所だ。
こんなところにあの不夜城があるのだろうか。

「もしや、もう潰れたなんてこたぁないよな。」
「まさか、なら駅前にあんな看板出すわけないだろ。」
確かにそうだ。ここは九州の要、博多だ。
潰れた店の看板を掲げるほど情報に疎い街ではない。
目印の公園があった。やはりルートは間違っていない。
もうすぐ着くはずなのにその姿が見えない。不安だ。
だいたい足がもう石のように重い。
背負う「タウン誌」もギリギリと肩に食い込んでくる。
タクシーでも拾って引き返そうかと思ったとき、
目の前に赤い看板の明るい建物が見えてきた。

あれだ。あったのだ。不夜城は存在した。
しかし想像していたものとは少々違う。
分かる人には分かると思うが「らんらんらんど」のような姿をしている。
この建物の中にあれほどの施設が収容されているとは思えない。
エントランスは二階にあるという構造だ。階段を足早に上り、
入り込むと冷房の冷たい空気が体をなめていく。
蛍光灯とネオンの多種多様な光が合わさって室内は眩い限りだ。
確かに見た目よりも中は広い。奥にゲームコーナー。
真中にでかいロデオマシン。そして謎の「サスケ」のようなものが
第一ステージの四分の一くらいだけ用意されている。
素直に「アスレチック」にしておけばよかったんじゃないかと思う。

ギャルっぽい地元のバイトと思しきおねえちゃんたちが、
後ろの端末でとりあえず会員カードを作ってくださいというのでさっさと打ち込む。
冷や汗がだらだらと出てくる。
実は私はここに着くまでの間、大きいのを催していた。
腸があまり強くないのだ。はやく厠に行きたかった。
ほぼ限界である。足をばたつかせて個人情報をさっさと入力して
とりあえず二時間ばかり遊ぶことにした。

遊ぶのはさておきとりあえずトイレへ爆走した。
あと少し遅れていたら大惨事だ。ほっと息をついた。
しかしここじゃ眠れるはずがない。そもそも「サスケ」があるような
この施設に「眠る」という選択肢が存在するわけがない。
寝床は改めて別の場所を探すしかないなと便座に腰をかけながら思い悩む。
まあとりあえずせっかく来たんだから楽しむことにしよう。

九州初夜、博多での夜は簡単に朝を迎えさせることはないようだ。
望むところである。
気分もすっきりさせた私は不夜城に踊り出て行った。



本物の無頼

本日火曜日深夜日テレ系列にて24:59~25:29まで、
「逆境無頼カイジ」の放送が始まります。

http://www.ntv.co.jp/kaiji/

「ヤンマガ」に連載していた福本伸行著作の漫画
「賭博黙示録カイジ」を原作とするアニメです。

福本伸行は知る人ぞ知る、ギャンブル漫画の金字塔を築いた先生です。
同著作の麻雀漫画「アカギ」もアニメ化されました。

「アカギ」のときは正直ほとんど人物が派手に
動くということはなく、アニメにして面白いんだろうかという
疑問があったのですがこれが意外に面白かった。
麻雀牌をCGで表現したり、心理描写とともに描かれる
ものの怪や竜や悪魔などの表現が臨場感と
派手さと面白さを演出していました。

主人公カイジの声優を務めるのは「アカギ」に引き続き、俳優「萩原聖人」。
カイジの敵役、巨大財閥幹部である利根川幸雄を演じるは
ピカレスク俳優「白竜」。 カイジにギャンブルの場を提供するヤクザ、
遠藤勇次はサスペンスの常連俳優「内田直哉」が担当となっています。
声優が渋い俳優だらけというのもなかなか他のアニメでは
聞くことのできない演出です。これから楽しみです。

福本漫画の醍醐味はこれでもかという心理描写。
小説にした方がいいんじゃないかというくらい
一手一手について心中言を交えて克明に描かれています。

逆境を生かす強さや発想の転換など日頃の
生活のヒントになることもあるんではないかと
考察されておりそういう視点から見た本も出ています。

極めて危ない「ハシ」を渡るカイジの手に汗握る
熱いギャンブルの闘いが描写されています。

新クールに入って、新しいドラマやアニメが始まるので本当に楽しみです。


後期

10月スタート。秋雨がぱらつく日が続いています。
半袖でいるとちょっと寒いですね。

後期は卒論だけこなしゃなんとかなるなーと
思ってたらそうもいかないようで。
かなりやること多くなってきて戸惑っております。

最近なんだかちょっと疲れやすい。
季節の変わり目ってのはやっぱり体が
まだついていけてないようで体調崩しやすそうです。

ちょい気合い入れなおします。


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隼んver.2.1

Author:隼んver.2.1
性別:男
出身:北海道札幌市
現住所:神奈川県横浜市
血液型:不明(いい加減知りたい)
職業:小売・販売業
これまでの迷言:
おれ達は前を見ることしかできない。
好物:ラーメン(何味でもかまわんです。)

少年老い易く、学成り難し。
もう少年でもないので、
老いてゆかぬよう頑張ります。
おっさん老い難く、学成り易し。

リンクフリーでございます。


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