今日も今日とて、とぜんでございます。

20代偏屈オタ男が日々とりとめないことを 書き留めるための随想録。 そしてそれは落書帳。 そしてそれはネタ帳。

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やっさいもっさい

髪を切った。邪魔っけだったし、遠路遙々お客人も来るということなのでバッサリ散髪。
いやー前髪がかからないってのはいいねー。前まで自分で切っていたんだけども
最近良い美容院を見つけたのでそこで切ってもらっている。

んでなんか他に書くことあったはずなんだけども忘れてしまった。
なんだったかなぁ。非常にもどかしい。

とりあえず就活以来髪をいじってなかったので、髪染めようと思う。
まあどうせ市販のものでは思った通りの色にならんのであんまりこだわっても
仕方がないということはわかっております。しかし今まで何回染めたことだろうか
よく考えると染めた回数はなかなかのものかもしれん。
禿頭だけは勘弁してほしいと思う。DNAの奇跡は起こらないでほしい。

あー腹減った。昼飯もまともに食えないってのはよくないですな。
なんとかタイムテーブルを確保したいもんだ。


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海賊王になる男

ワンピースってやっぱ面白い。泣ける。和月組ってすごいメンツだなーっと思う。
エニエスロビー編終わってフランキー仲間になったとこくらいまでしか読んでなかった。
最近読み直し進めて追いついて、デービーバックファイトみたいにお化け島の話も
まあ場つなぎなんかなぁと思っていたんだけども、とんでもねー伏線回収で驚いた。

ワンピースの場合は伏線張りすぎてわけわからんことになってるっていうのも
あるけどもそれ差し引いてもやっぱり感動しちまう。ペローナかわいいしなぁ。
信頼とか正義とかって難しいことなのにいやーほんと痛快に分かりやすく描いてあると思う。

「生き死に張ってやりたいことやってるからあいつらは心の底から笑うんだ。」
ウソップよく分かってるよなぁ。ウソップ戻ってきて本当に良かった。

尾田ちゃんもいってるけど少年魂はいつになっても忘れないようにしようと思う。

ところで全然関係ないが、妹の班ノートになんかキャラクターが
上手に書いてあったので触発されてぺージを見よう見マネで怒ったルフィ書いてみた。

見よう見マネのルフィ


意外にうまく描けたので子供のように見せて回った。
昔はよくキャラクター描いて遊んでたなぁ。
でも今こんなことしてる場合じゃないよなぁ。おれ。

「自分でそうなるって決めたんだから、別にそれで死んでもいい。」
ルフィしびれるぜ。あー続きが気になる。


新しい感覚

風呂に入ると落ち着くようになった。
何を当たり前のことを言っているんだと突っ込む方いらっしゃるだろう。

温泉とかを別にして正直あんまり家で風呂に入ってる時間は好きではなかった。
なんでかわからないが時間を無駄にしてるような感じがしていたので
ここ数か月前くらいまでシャワーでさっさと手早く済ませていたのだ。
カラスの行水もいいところであった。

どういう心境の変化か風呂に入ってる時間が
なんとも愛しむべき時間のように感じられるようになった。

年を経るにつれて色々と趣向が変わっていくとはよく言うがまさにそんな感じである。
ともかく色々な感性が変化していくというのは面白いことである。
感性が変わっても前に好きであったものが突然嫌いになったりするわけでもないので、
感性の幅が広がると言った方が適切かもしれない。

世の中感受性豊かに生きるというのが何より楽しく渡世するコツじゃないかと思う。
一見つまらんことでもちょっと見方変えると突然面白くなったりするもんだ。


継続は運なり

ブログをやって早半年以上過ぎ、ほぼ毎日更新を目指し書き綴ってきた。
パソコンが壊れてしまった9月は半月しか更新できなかったけれども
それを除けばなんとか良いペースで更新できていると思う。
カウンターももうじき7000を回るので微かに継続の実感が湧いてきた。

毎日何かを続けるってのは生理現象以外は大変難しいことだと思う。
自由意志の中で習慣を得るというのは何より忍耐が必要で
そう簡単には身に付かないものである。

文章を書くということは大学を出てしまったら、物書きの仕事に就いたり
何かに投書でもしたりしないかぎり恐らくその機会をどんどん失っていくと思うのである。
あわよくばこの文章癖が抜けないように精進していきたいと思っている。
他にも色々と有益な習慣を身につけたいなぁと常々思っているのだけれども
時間やら意志の弱さが原因してそう簡単にはやはり身につかないでいる。
それでも三日坊主が定番のおれとしては半年も書いているので少々自分でも驚いている。

やはり毎日生活に即して何かを書くというのはやはりネタが無いこともある。
今日も実は何か書こうと昼間思っていたはずなのに夜になると忘れているのである。
だから非常に今は気持ち悪い感じがしている。

ぼちぼち卒業論文を仕上げなければならないので忘れてる場合でもなくちょっと
追い詰められている。人間本当に予め立てた計画などつくづく役に立たないものである。
未来のことなどわからない。大袈裟に言えば明日命すらもあるかどうか怪しいもんなのだ。
おれの予定では余裕で卒論は書きあがるはずだったのに全然である。

果たして何万字書けるのか自由意志の中で
忍耐と妥協を戦わせる自己闘争の始まりである。

最後にこの自慰的ブログを読んでいただいてる方には本当に感謝したい。
これからもなるべくしつこく美しく自分らしく自慰していきたいと思う。


きりたんぽ鍋を

食べてきた。
前にも東北に住んでいたころに食べたことがあったのだが結構
たんぱくな味だったのでどういうものか忘れていた。

きりたんぽとは米をすり潰して棒に丸めて伸ばしてつけて
焼いたもので、弾力のあまりない餅みたいな食感である。
鍋の汁がしみ込むので具のエキスがしみ出たほぼシメの頃合いに
きりたんぽを入れて適度に火を通して食べると格別である。

ところがこれ見た目の体積の小ささに比べて非常にヘビーである。
というのもすり潰している分見た目よりもずっと米の密度が高く腹がいっぱいになるのである。
3本くらい食べただけでギブアップした。

それでもやはり旨い。旨い食い物と旨い酒。これに尽きる。
健康五体満足で食を愉しむことができる身をもつことにもう一度感謝したい。


夏夏冬冬

一昨日はめちゃめちゃ寒かったのに、昨日今日は暖かすぎる。
筑紫さんが「春夏秋冬」ではなくて「夏夏冬冬」になりつつあるとか
言っていたが確かにそんな気がしないでもない。
そして日本人が圧倒的に好きなのは春と秋であるらしい。
確かに過ごしやすく色々と心にも訴えてくる季節だ。
今のこの若干の異常気象のおかげで山の木々たちは
季節を迷ってはっきりと紅葉できないでいるというのだ。

日本人に生まれて何が良いかって「四季」があることだ。
だからこそ日本人は色彩感覚に富んでいるとも言われている。
虹をきっぱりと七色に判断できるこの色彩識別の能力はすばらしいと思う。

パントーン携帯やその類の製品がズラリと並んでいるところを見ると、
これだけ「色」にこだわる国はそうそうないと思うのである。
手紙を見ても時候の挨拶なんてのは本当によくできたものだと思う。

事実何かの本で読んだことがあるのだが、日本人がアメリカの西海岸で暮らしていると、
気候は確かに温かく穏やかで過ごしやすいが、年中変わらぬ季節に時間の感覚が
狂わされじょじょに気候に退屈してきたという文章を見かけた。

四季はある意味立派な日本国のアイデンティティーなのだろう。
桜をこよなく愛する日本がこのまま夏夏となってしまえば
恐らく桜たちも咲きどころを失い、また散り際を見誤る可能性があるのだ。

人間なんかよりもずっと気温に敏感な動植物たちが遅かれ早かれ
これからの気候の変化をおれたちに教えるだろう。
その変化に気付いたとき果たして間に合うのかどうか至極疑わしいが
四季の美しさを失うというのはちょっと残念なのでなんとかしたいところだ。

人間は強欲で横暴だから快適な暮らしを捨てることはできないだろう。もちろん
おれも捨てたくないのである。そこで自分に義務を課して罰することができるのか否か。
これからの温暖化を食い止める光明はただその一点にかかっていると思うのである。


年末+連休=混雑

言いたいことはほとんどタイトルで言ってしまった。

人が多い!いや首都圏なのだから多いのは当たり前で分かっている。
それでもやはり多い。夜だろうが昼だろうが時間帯関係なく人ごみができている。

地方から出てくるとどうしても街に出るとそういった雑感しか出てこない。
いやでもよくと考えると首都圏だからこそ地方出身者は決してマイノリティではなく
むしろ多いはずなのだから、みんなそう思っていると思う。

だからって腹を立てても仕方がないし、別に腹も立たなくなったけれども
やっぱりこの人口密度は異常だと思う。こういう場所にいると人口より羊の方が
多いニュージーランドの話とかこの世の話ではなくおとぎ話に聞こえてきてしまう。

井の中の蛙、大海を知らず。されど空の広さを知る。
まさしく名句だと思う。

井の中の蛙になりたくないからみんな上京していくのだと思うけれども
そこから見える空はとてつもなく狭い。ちゃんと目を見開いてないと
視野は人集りに遮られてどんどん狭まっていくばかりだと思う。

ぼーっとしてないで目を逸らさず、刮目しなければならないことが沢山溢れている。


第四次ゲームハード争奪大戦

ファミ通


久々に個人的にネットラジオ収録をしてきた。
今回紹介した雑誌はゲーマーでなくともご存じだろう「ファミ通」である。
写真にはないが、もうひとつは任天堂専用雑誌「Nintendo Dream」、
通称「ニンドリ」である。

「ファミコン」から家庭用ゲームが大衆に明るみに出るようになってから、
「スーファミ、PCエンジン、メガドライブ」の時代。
「セガサターン、プレイステーション、ニンテンドー64」の時代。
「ドリームキャスト、プレステ2、ゲームキューブ、Xbox」の時代。
とゲームハード史を大きく区切って見ていくのならば、今は「Wii、プレステ3、Xbox360」の
三つのハードを巡る、さしずめ第四次ゲームハード選択大戦といったところである。

もちろんこの他にもSEGAのマーク2、ネオジオ、3DO、バーチャルボーイ、
プレイディア、PC-FXなど大舞台ではあまり活躍できなかったハードたちも沢山あり、
携帯家庭用ゲーム機まで含めると無数のハードがこの世に生れ出た。
今はDSとPSPの二大携帯ゲームハードが両側から席捲しているが
中でもDSの進撃は凄まじいものがある。

幼少の頃からファミコンカセットに囲まれて育ったおれはゲームに関しての感覚は
麻痺してきているので新しいものが出てこれだけDSが普及しようとも、
あまり感慨も受けていないのだが改めてゲーム機の変遷を見ると目覚ましいものがある。

単にテレビゲームといったチープな響きのハードではなくなってきている。
一台の拡張性がかなり強いのでもはや一つの生活家電製品と肩を並べるまでの
成長を遂げたと言っても過言ではないと思う。

バランスボードやらなにやらを買いそろえていくといよいよ家の中で
ゲームしてんのに運動してるということにもなってくるのである。
そうなると「たまには外で運動してきなさい」といった叱咤もその威力を失ってくる。

今はあまりゆっくりとゲームをする時間もなくなってしまい、
たまにぶわーっと遊ぶ程度になってしまったけれどもそれでも
ゲームに対する熱は冷めてくれそうにない。

おれがおぎゃーっとこの世に生を授かって、歩けるようになって、喋れるようになって、
下の毛も生えそろって、汚い男になるまでの年月でまさに赤ん坊が成長するように
ゲームもこの20年来で日進月歩でとてつもない進化を遂げたというわけだ。

結局おれの人生の中でゲームというものはその傍らにずっとあったものなのだから
切り離せないというのはゲーマーとかオタクとか以前の問題である。
つまり、テレビや洗濯機や冷蔵庫と同じように家にはゲーム機があったのだから
当り前の存在になっていたということに今更気付いたのだ。

ハードとソフトの歴史を振り返ることは自然と自分の思い出を振り返ることになっている。
ゲームがただ遊ぶだけの存在だと思われてきたが数十年という年月が
折り重なってくるとちょっとそれだけの存在ではなくなりつつあるよなぁと思う。

面白くって夢中になれて、友達と語りあかして、ストーリーにジーンと来たりするような
ゲームと共に育ったことは少なくとも無駄じゃねーなぁとちょっとしみじみしたりする。
単純に年くっておじさんになったからと言われてしまえばそれまでだけども
ゲームというものが底が浅いもんだとはどうしても思えないのである。


泥夢

なんだか最近よく夢を見るようになった。
あんまり夢は見ない方というか見てもあまり覚えていないことが多い。

夢の種類も多種多様でわけがわからない。
この世のものとは思えないすげー旨い日本酒を飲む夢だとか
目を覚ましてみたらいつのまにか人ん家で寝ていて面をくらう夢だとか
何故かアパートに入ろうとしたら鍵が合わず立ち往生する夢だとか
支離滅裂、奇奇怪怪である。

基本的には浅い眠りのレム睡眠時に大脳が覚醒状態に近づいて
夢を見ることが多いとされているが、別に眠りが浅いという感じもせず、
むしろぐっすり眠っているときに見ているような気がする。

とくにはっと夜中に一度目覚めてもう一度寝るとだいたい
意味のわからない夢を見てまた目を覚ますというパターンが多い。
夢で良かったと思うこともあれば夢じゃなかったらなぁと思うこともある。

どうやら人間だけでなくほかの動物も夢を見るらしい。

足りない脳みそを使いすぎて整理できなくっているのかなぁという気がしないでもない。
色々考えてから寝るとだいたい夢を見たりするもんだ。

脳みそも臓器の一つなんだなぁと思う。
本能的にパンクすれば何かしら反応を示して体に訴えてくる。
ストレス、ストレスと最近よくいわれるようになったが、「ストレスからくる病気ですね。」と
診断されたところで一体何ができるのだろうか。
逆に言えば、「あなたは精神が弱いんですね。」と診断されてるのと同じじゃなかろうか。
幸いそんな風に診断されたことはないけれども、そういう話ばかり聞くとなんだか切なくなる。

人は思っているより精神は強くないものだなぁと最近切に思うようになった。
それを汲み取れる人間ってのは本当に優しい人なんだろうなぁと思う。


忍耐と優しさ

寒さもいよいよ増してきた。おれの部屋は家の中でもっとも
外気温に従順な部屋で外が寒くなりゃ冷えるし、暑くなればすぐ蒸してくる。
その代わり何かしらの冷暖房器具を少しでも用いれば
一瞬であったまりもするし、涼しくもなる部屋でもある。

北海道、東北、関東と順々に南下してきたので寒さには多少の自信がある。
しかし今ではすっかりその厳冬の辛さも忘れてしまっている。

そんな己のたるんだ精神を正す意味もこめてギリギリまで
暖房は使わんと思っていたのだけれども遂に今日ストーブをつけてしまった。

温い。ひたすらに温い。やはり寒さには生命は弱いのだなということを切に感じる。
人の優しさを温もりと表現するのはやはり生命の息吹を感じるからなのだろう。

雪が降り足が悪くなるのが雪国の冬では当たり前だ。
だからある程度みんなが歩いて踏みならして少しずつ「道」が出来てくる。
それでもその道は大きなものではなく積りたての早朝だったりすると
人一人がやっと歩けるほどのものである。

そんなとき向こう側から人がやってくると道を譲らなければならなくなる。道を譲るには
まだ道になっていない場所、すなわち積った雪に足を突っ込まなければならない。
そんなとき譲ってもらった人は自然とありがとうと挨拶をする。
譲った人はいえいえといいながら会釈を返す。

雪国では普通の光景だが、こっち来てから譲り合いなんてものはあまり感じない。
だいたい「我先に!」である。そういったシチュエーションもあまりないからだろうか。
何故、見知らぬ人であってもこんなに快く感謝の挨拶ができるのであろうか。
それは譲る人も譲ってもらう人も「雪の冷たさ」を知っているからである。

「寒さ」はとりもなおさず人の痛みや辛さでもあったりする。
北国は寒いが人は温かいなんてうまいことを言ったりするが
伊達や酔狂で言っている言葉ではないと思う。

少なくとも北国では寒さの辛さを皆が知っている。
その分、温いということの安らぎをもっと深く知っているのだ。
だから助けあうのだろう。

無性にあの雪の寒さを求めたくなるときがあるのはその中に潜む、
温もりを忘れられないからなのかもしれない。


アンパンマンは君さ。

アンパンマンミュージアム_時計塔


アンパンマンミュージアムである。
やなせたかしが生んだちびっこたちの国民的ヒーローの時計塔。かわいらしい。
子供のころはアンパンマンのブランケットに包まって寝ていた。大変お世話になった。

アンパンマンミュージアム_外観


小奇麗なこの施設はなんだかハワイのションピングモールを
思い出させるようで大変おしゃれな造りである。
アンパンマンの名の付くものなら大小、食べ物様々なものが売っている。

中でもわくわくしたのがこれである。

アンパンマンミュージアム_ジャムおじさんパン工房


ジャムおじさんのパン工房である。ジャムおじさんすごいのである。
作れるのはアンパンマンの顔だけじゃない。
あらゆるキャラクターの顔のパンが作られている。
ブラックロールパンナまであるなんていかしている。味も良い。

見て回るだけでも十分楽しかった。


アンパンマンが自分の顔を分け与えるのはあまりに有名だ。
見ようによってはかなりグロテクスな表現である。
近年知ったことなのだがそこにはやなせたかし氏の哲学があった。

まず食べ物を分け与えるというこの発想は戦後の食糧事情から生まれた発想らしい。

「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、
そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。」(第一作のあとがき抜粋)

こうして顔を分け与える異色のヒーロー、アンパンマンが誕生したのである。
自分の身を削ることで他者を救う。クリスチャンであるやなせ氏の隣人愛の精神が
食べ物という純粋で優しい形をもって表現されていると思う。

今思えば確かにアンパンマンはほかのヒーローに比べて決して強くはない。
劇場版でも必ず一度はコテンパンにやられてしまう。
そこには正義に対しての妙なリアルさが確かに存在しているなぁと
子供でなくなってからなんとなく気付かされるものがある。

しかし今は飽食の時代だ。食べ物で困るということはよほどのことがない
限り見かけなくなっている。食べ物どころかいろんなものが使い捨てである。
何かを分け与えるという気持ちは薄くなっていくのかもしれない。
みんなモノを持て余しているのだからむしろ分け与えた方が迷惑なんてことすらある。

ではいったい何を分け与えられるのだろうか。多分それは子供たちが
今も夢中になってアンパンマンに共感し応援し続ける純粋な気持ちなのかもしれない。

多かれ少なかれ身を削って困っている人を助ける気持ちや優しさの大切さの意味を
少なくともアンパンマンはあんこに乗せて分け与え続けている。


遠くを望む

KC290280_横浜ベイブリッチ

ベイブリッチ側展望


高い所に登って遠くを見るのが好きだ。
世界のあちこちに展望スペースが点在していることを考えると
展望することはおれだけじゃなく昔から人が望んだ行為のようだ。
偉い人ほど高いところに座すのは人を見下ろすためなのか。

おれは人を見下ろすほど立派でも偉くもない。
それでも遠くの景色を見るとなんだか落ち着く。
実際はかなり遠いところにあるのに展望すると色々なものが身近に感じられる。
ベイブリッチもあんなに小さく霞んで見えるが実際に渡ってみると巨大である。

人の目は前についているので広い視野を見渡すには不向きな動物である。
それでもそれを補うために横目を使ったりして目をそらす。
同じように精神的に追い詰められたりすると視野が狭まって目の前のものしか
見えなくなったり逆に目をそらしたりする。

そういうとき展望台からの景色を眺める。
そうするといかに自分がちっぽけであるか気付く。
それでも確固たるものは自分とその身近な周辺にしかないことに気付いたりする。

見えている間はまだ大丈夫。
遠くの景色を眺めていると、なんだかそんな妙な自信が湧いてくるので不思議なものだ。


切れてない

出汁巻き玉子


知己と酒を酌み交わす夜。出汁巻きを肴に冷を啜る。
この出汁巻き美しすぎる。切れていない。
切れ目が美しすぎて切れていないように見えているだけかと思い。
ひと思いに箸でつまみ持ち上げる。切れていない。一枚の出汁巻きだ。

切れて出されている店ばかりなので面をくらった。
箸でちぎりながら食うというのもまたそれはそれで良い。
ミスで切っていないのかと思いきや、メニューに載っている写真でも切れていない。
趣向と意図を持って出されているということなのでおいしくちぎり食べた。

一つの品でも盛り付けや出し方によって料理そのものイメージが変わるということはよくある。
高級な料理はまず目で味わい、鼻で味わいそしてようやく舌で味わうといったような
演出があるが、いかなる状況で食うかということも大事ではなかろうか。焼き肉屋や
高級レストランに1人でなかなかいけないのは状況を限定する料理だとも考えられる。

互いによく見知った中でまったりと箸でつついて食うという何気ない所作にも
なんともいえない「味」がそこにはあるんじゃないだろうか。

人が出来ることとそしてその先に人が得られるものについて語り合った。
悩むことは悪くないと思う。おれはほとんど自分が大事だから
人のためにはなりたいとは思っているが人のために悩むってのはあまりなくて
酷くドライで冷徹な人間なんだなとなんだか思い知らされた。

落ち込むこともあるだろうけど前向きに動いて何かにぶつかったとしてもそれはそれで
良いんじゃなかろうか。積み重ねてきたものがその人にとって空虚だということはないだろう。
そこから崩すこともまた積むこともできるのだから。

色々考えさせられる夜であった。


しゃぶしゃぶ

久しぶりにじゃぶじゃぶを食ろうた。実に旨し。旨すぎて写真とるの忘れた。
至ってシンプルなもので、昆布と大蒜をつぶしたものを入れた湯の中に、
ほうれんそう、えのき、水菜、豆腐をぶち込む。あとは豚をしゃぶるだけである。

しゃぶしゃぶというのは肉によって味が決定し、牛しゃぶ、豚しゃぶ、ラムしゃぶなど
色々あるが、一番好きなのは豚しゃぶである。
牛しゃぶも悪くはないがやはり灰汁が強く、味も濃いので
なかなか続けて食べるにはしんどいのである。まあ年のせいもあるかもしれない。
ラムしゃぶは肉自体に臭みがあるので人を選ぶが、
北海道で生まれたおれにとってラム肉はポピュラーなものなので気にならない。
しかし食べたことないひとにとってはかなり癖のある味である。

前に鍋の季節よりも早めにてっちりをご馳走になったが実にうまかった。
ブリしゃぶだ、たこしゃぶだと最近は魚介系のしゃぶしゃぶも目にすることが多くなった。

めっきり冷え込んでくるので鍋はかかせない。日本の冬の食の風物詩ともいえる。
湯豆腐だけでもかなりうまい。なんだかどんどん蛋白な味が好みになってきているような
気がする。そうなってくるとまたじじくさいと非難を被るのが癪に障るが
好きなものは好きなので仕方がない。

とにかく何を入れても大抵おいしくなってしまうのが鍋の良いところである。
大勢でわいわいつつくのもこれまた楽しい。
ただし、野菜を切りまくるのが少々大変であった。


二層の空

パシフィコ横浜の空


パシフィコ横浜。みなとみらい21地区の一番海側にある
多目的スペースを備えたコンベンションセンター、いわゆる巨大催事場である。

今日は雲一つない快晴というやつで、待合室でぼーっと眺めていたのだけれども
よく見ると空がグレーとブルーの二層になっている。
グレーの部分は大気が汚染されているのだろう。

この空気の中を歩いているということを今更気付いた。
空気が汚いといっても別に肺が侵されるわけでもなく
難なく呼吸もできるわけで、排ガスを直に吸わない限りそうそう実感する機会がない。
でもこうして見るとやはり空気は汚れているんだなぁということがわかる。
百聞一見に如かずとはこのことである。

写真だとあまり鮮明に見えないけれども肉眼で見た空は、
濁ったリキュールの沈んだカクテルのように二つの層ができあがっている。

この風景がなんだか色々と切に訴えてくるようで余計に遠くを眺めてしまった。
深く考え事をするとき空を眺める描写がよく出てくるが、それは何故なのだろうか。
確かに何か悩んだりすると空を見上げたり、高いところに行きたくなったりする。

重力に縛り付けられていることを実感すると共に
身動きとれずにもがいてる自分をその状況に透かして見るのだろうか。

ユトリロが酒に溺れて描いた空は灰色の空だった。
青と灰色の空というのはこれはこれでなんだか人間の罪深さを
象徴しているようで胸に迫るものがあるのは確かだった。


決断

自分勝手な精神論の話。

一度決めたことってのは大抵覆せない。
覆そうとしても大抵ことは進んで状況が変わってるからだ。
自分の意思でどうこうならなくなっている場合も多い。

しかし決めたことの結果ってのはすぐに出ないわけで
大抵のことは覆す必要はない、というかその気が起きない。
でも稀に決断したことに対しての結果が早く分かる状況というのがある。
そういうときってのは大体が一大事でかなり重い決断の場合が多い。

決めた後はただそれに従って進むだけだがやはり不安も希望も半々。
複雑な気持ちだ。信じて待つのみ。

人事を尽くして天命を待つ。

人事を尽くすってのはそうそう出来ないことだ。
誰が言ったのか知らぬが、言い得て妙である。

とりあえず天命は待たせていただきたいと思う。


熱唱時間

20071113215358_カラオケ熱唱


なんだか久しぶりにカラオケに行ってきた。
おれは普通に歌ってるつもりなのだが明らかに周りが退くくらい熱唱しているらしい。

中学のときに初めてカラオケに行った時から大声を出さないで歌ったことはない。
というかそれが普通なのでサビなどで弱く歌うことができない。
応援団に入っていたこともあって声を出すという意識を一度してしまうと
緩めることができない。アドレナリンが出まくってしまう。
その後、心地よいドーパミンが噴出されてくる。

まあどっちにしてもせっかく歌うのだから全力の方がいい。というのが持論である。
下手くそでも心がこもってればいいじゃない。
でも下手くそで大声だと救いようがないことに最近気がついてしまった。
周りはそれでも聞いてくれるのでそういう優しさってやっぱ大事。
聞いてくれる人に感謝して歌わないといけませんな。ありがたや、ありがたや。

久々に歌ってすっきりした。カラオケ文化っていいよね。
歌はこ洒落た言葉なんかよりも何倍も心に響くからいい。

それにしてもカラオケの進化も目覚ましいもんだ。
もっと進化して色々な演出ができるようになるんだろうなぁ。
カラオケからスター誕生なんてのも今じゃめずらしくないのかもしれない。

本気で歌うのが大好きです。


配管工RPG

妹がどこからかわからないがしまってあったゲームソフトを引っ張り出して
突きつけてやってくれと突然言ってきた。

マリオRPG


マリオギャラクシーにストライカーズという時代だというのに、
スーパーマリオRPGである。なつかしくて涙腺が緩む。
「ロ~ルプレ~イングゲ~ムやったことないひとも~♪おっけ~!」
というCMでお馴染み、1995年に発売された「nintendo」と「スクウェア」の幻の合作である。

妹を隣に座らせてスイッチを入れる。前にドンキーコングとF-ZEROをプレイしようと思って
セッティングしたのでプレー環境はバッチリである。

ところがかなり画面がチカチカしている。マリオRPGはグラフィックが美麗な分かなりの
容量なので本体があまりまともに読み込んでないらしい。
挙句に一定間隔で画面がぶれるぶれる。ガイナックスお得意の戦闘シーン並である。

それでもまあ普通にプレイはできるのでキノコ城を過ぎてどろぼうロードに入った
あたりでセーブしてとりあえず満足したようなので中断した。

いやーやっぱよくできている。アクションとRPGってどういうことよと
当時疑問に思っていたような気がするが、見事に融合昇華している。
アクションフィールドにロマサガ式のエンカウントバトルというのがバランスがいい。
レベル上げが単調にならず適度な難易度で刺激がある。

ストーリーもぶっ壊し加減がいい。クッパがラスボスじゃなくて仲間になったときは
あまりの急展開にしびれて転げまわった。ピーチが仲間になったときは
フライパンで敵をボッコボコにした。こんな暴力的なピーチ見たことない。
ジーノもマロもオリジナルキャラだというのに世界感を壊さず、
メロメロのファンタジーを提供してくれる。

そういう意味ではやはりゲーム史に残る名作だと思う。
もう版権やらの問題でDSとかにも再登場はしないだろう。

DSの一人勝ちだがファミコンからどっぷりはまっている世代はおそらく
その大半が焼きなおしだということに気付いているだろう。
それでも懐かしくてプレーしたくなるから任天堂の戦略は正しい。

PS3とX-BOXはもはやゲームの範疇を凌駕している。
物理演算だなんだと計算技術も向上してゲームの中で「落ちる」と
デジタル液晶テレビの画面を見ながらプレーしていると
本当に落ちている感覚が襲ってきて気持ち悪くなるほどだ。
マリオギャラクシーとかもろ酔いそうなのだがどうなのだろうか。

コントローラーと言えば十字キーと4つのボタンだろという
ステレオタイプのおれは未だにWiiリモコンをまともに扱えない。
小学生の妹にゲームで負けちまうとは本当に情けない限りである。

そんなおれは妹に復讐すべくクラシックコントローラーを購入して
ぼっこぼこにしてやろうと計画をしている。大人なげない?結構。
ゲームをしているときは童心に帰っているのだから関係なし。

クラシックコントローラーってところで本当にクラシックなのだろうか。
見た感じなんか非常にエポックメイキングな物体に見える。

ゲームも進化してここまでくるとなんだか楽しいような、寂しいような二つの気持ちが
混在している。どちらにしても思い出と共に残るゲームは大切にして欲しいと思う。


目に映るものと見えるもの

わけあって深夜、街を泳いでいるとなんとなく不思議な気持ちになった。
いつも見ている景色がなんとなく違って見えるときというのはないだろうか。

何か考え事をしているときとか不意に街の明かりに目をやると
いつもより眩しく見えたりする。

別にこの年になってから始まった行為ではなく
昔から何かに佇んで景色をぼーっと眺めて物思いに耽る癖があるのだ。
最初ははっきり言ってただのかっこつけであった。
一人で佇んでいることがかっこいいと思っていたのだ。
佇むんだったらやはりタバコは吸わないと画にならんだろうと
思って中学からタバコを吸い始めてしまった。

今は禁煙生活をしているわけだが不意に景色をじっと眺める癖は抜けない。
思えば転校間際に公園で皆で遊んでるときアスレチックの一番高い
ところに登ってしんしんと降る雪を眺めたのが最初だったかもしれない。

そうやって格好をつけていたのだが、癖がそのまま自然体になり、
今は格好つけでもなんでもなくありのまま物思いに耽っている。

こういう風な気障行為をときに恥ずかしく思うときもあるのだが
都会に出て街を見てみると意外にそういう人は結構見かける。
ただ待ち合わせしているだけなのかもしれないが
ぼーっと眺めている人を見ると何を考えてるんだろうなと親しみが沸く。

普段人と会話しているときは畳みかけるようにうざく話をしているが、
一人のときはそのまま口に出なかった言葉やら考えやらが頭にうずまくのだ。

そうやってうずまいてる言葉は至極無駄なことだと思っていたが
実際何か考えてないと生きた心地がしないということに最近気づいた。
何も考えないとおれは腐るんだなーと去年の冬くらいから実感した。

だからちょっとでも思いついたことを書留めて置いた方が
無駄は無駄なりに面白いし、考えたという痕跡は残せるなぁと
思ってブログを始めたのであった。

目で見ているものも頭の中でいったん何かに還元されているというのが
理屈抜きで実感できる瞬間というのはなんとなく面白い。

すぐれた芸術家はきっとそういう還元の作用が普通の人よりも
敏感であり、同じ景色を見ても、感じて頭にインプットされる
景色は何倍も表情豊かなものなのだろうなぁと思った。

時間があればなにかしら芸術的なことを少しでも嗜んでみたいなと思うこの頃である。


最近欲しいもの

それは日本刀である。日本刀と言っても真剣ともなると携帯許可を
もらわなければならないし値段も目が飛び出るのでなかなか手は出せない。

しかし流石大和侍の国、日本。日本製のいわゆる模造刀、模擬刀とか呼ばれる
刃の付いていない、インテリア鑑賞用や型の練習用の刀が沢山取り扱われているのである。

これがなかなか見ている限りリアルっぽいのである。
もちろん鉄でできてるわけではないので鈍器にはなるだろうが殺傷能力はない。
でも架空の「逆刃刀」とか「無限刀」の模造刀もあるのだから驚きである。
値段も手ごろなので適当に今度どれかスタンダードで安いやつを
購入してみようかと考えている。

そんなもん買ってどうするのかって?
眺めて悦に入ったり、決めポーズをして遊ぶためである。
要は精神分析の分野でいわれる幼児化とか退行とか呼ばれる現象が
私の身には起こっているのでいまさら指摘しなくてもよろしいです。

神奈川には中華街とか鎌倉に「武器屋」があって何度か足を運んだことあるが
とてつもなくファンタスティックで見てるだけでも楽しくなってしまう。

モーニングスターとかグレートアックスとかレイピアとか普通に売ってるわけである。
FFDQに夢中になり、ダイの大冒険を読んで育った世代は
多少なりとも心動かされるはずだとは思う。平和の時代だから武器に憧れるのだろうか。

21世紀はどうなっていくのだろうか。再び武器を手に取る時代がやってくるのだろうか。
少なくとももう一波乱があるような気がするが、今この瞬間にも戦争は起きているし、
既に経済戦争という名の戦争は始まっている。

模造品の武器を見てにやにやできるこの平和の時にひたすら感謝する。


白き部屋での決意

納得できないことがあって今日は白い部屋で正面をきって色々聞いてきた。
そして生と死と時間について考えてきた。

こう書くとなんだか至極重くるしい哲学をしている気がしているが、
なんのことはない。いつかは誰もが考える命題である。
一日一日を大切に生きるとはなんなのだろう。
結局自分が揺らがず笑って生きることがおれにとっての価値ある毎日だということに
疑問はなくなった。不思議と前より気持ちが軽くなったような気もする。

知ることはやはり意味あることだ。知らなければ考えることも選択することもできない。
何も知らず、考えず、誰かの考えた選択や道を選ぶことは確かに楽だろう。
でもおれはやっぱりそれじゃ本気で笑えないし怒れないし泣きもできない。

でも知れば恐怖と不安がやってくるのは確かだ。
もっと本当に苦しい思いをしている人がいるのだから甘んじなければならない。
一人で生きているわけではないということを日に日に理屈抜きで実感した。

始めからしてやれることなど何もなかった。おれはただの人だ。
ただ自分に恥じぬよう悩んで悩んで納得して今を生きるだけだ。
それが自分の受けた生を無為にしないことに繋がっていくのだろう。

絶望ってのは暗いんじゃなくて意外と眩しい。
不幸に任せて身を沈め腐ることなど容易い。
だがそれでは意味がない。尊厳がない。
幸い目に映るものはそこまで濁ってない。
もう憂うのはこれでやめようと思う。


最近のブログを読んで心配なさってくれた方々本当にありがとうございます。
読者のことを考えず感傷的にブログを書き散らすのはよろしいことではないと
思っていたのですが、なりふり構わぬ状況というのが
人にはやはり一度や二度はあるみたいです。

もうこの手の文章は時間が過ぎ去って振り返って自分でそれなりの答えを
見つけられるまで、しばらく書かないようにしようと決めました。
陰鬱で的を射ない文章を不快に思われた方もいらっしゃると思います。
ここでお詫び申し上げます。

これからはまた下らぬとぜんを書き連ねて行こうと思いますので
何卒よろしく、ご容赦ください。


懐かしいということ

この前「ジョジョ」を読み直したのを皮きりに「るろ剣」とか「スラムダンク」とか
いわゆる「黄金期」周辺の漫画をもう一度読み返している。

なんだか懐かしいとか以前にやっぱ面白い。今読むとまた違った感じがする。

昔、お金持ちの友達がいて、そいつの家はびっしり廊下まで漫画の本棚が
溢れているような家だったのでよく野球部の連中と遊びにいった。
運動はだめだったのになぜか運動部の友達とばかりつるむことができたのは
幸せなことだったと思う。結局家に遊びに行っても外で運動して遊ばない
限り皆黙ってもくもくと漫画を読んでいた日もあったような気がする。

ストーリーを忘れていて補完するのが面白いというのもあるが
ただかっこいいとかじゃなくて熱い何かを感じるようになったのが違いだろうか。

漫画を読んでも確かに勉強できるようにはならないだろうけど
豊潤なストーリーは小説にせよ漫画にせよ人に大切な何かを教えてくれる。
漫画の歴史もだいぶ深くなってきたが、おれが年をもっととってじじいになる頃には
漫画はもっと文化的な扱いを受けているのだろうか。

若い頃に体験した記憶というのは一生の中でやはり一番甘美な思い出となるのだろう。
60,70年代の文化がかくも取り上げられ今になって復興してくるのは
団塊の世代の方々の青春時代がそこに詰まっているからなのだろうか。
いずれにせよその時代を生きなかったおれでも、前に大学のレポートとして
この年代についての日本文化についてまとめたことがあったが、
調べて知った限り確かに魅力的な時代ではあったと思う。

2000年代は果たして2,30年後魅力的な時代として取り上げられるのだろうか。
最近ふと思うのはそんなことである。何となく豊かであっても満たされず暗い時代
というイメージが拭えないのがおれの2000年代の所感である。

来年のことを言うと鬼が笑うが、2,30年後のことを言うと一体何が笑うのだろう。
日本の政治は明らかに2,30年後良い時代にしなければならないという使命を背負っている。
とりあえずおれは2,30年後も自分に自信を持って笑っていられる自分でありたい。


見え方

ものの見え方がまた変わってきている。
人の接し方は変わらぬが物事を見るとき何か遠く感じるようになった。何故だろうか。

なんだかいちいち身が重くなる。苛立つより先に萎れる。
こんなことは確かに今まで何度もあったけれども
寝ても覚めても余計な嫌な夢ばかり見る。

風邪を引いた。声が枯れる。洟をすする音が醜い。
体はいつも通り動くということだけが救いだ。
病は気から。自分の信じたものに尽くそうと思う。


酒の日々

酒を絶っていたのがよほど体に応えたのか打ち上げとかその他知人との飲みで
その味に目を覚まし、思い出したように徐ら酒を呷っている。
といっても身を沈めるような悪い酒ではなくて、心地よく酩酊できる酒である。

「酒を飲んで不味いと感じるなら、それはお前の心のどこかが病んでいるからだ。」
という名台詞があるが、確かに少し酒の味は前よりも苦く感じる。
だがそれでもどこか沁みるようにずーんと響いてくる感じは
また違った酒の旨さのような気がしてくる。

人の多いところに立ち入って色々見聞きした後は、
途端に人間について熟考し余計な哲学をする厄介な癖があるので
親やら年上の方と盃を交わすとき主観的な人間考察を猛烈に語ってしまう。

個人的にはこの人間考察はかなりおれの人生の役に立っているし
自分の芯の部分でもあると思う。人の世を渡世するならやはり
重んじるべきは「人」しかないからだと考えているからだ。

最近どうにも熱い人間を見かけない。自分はある意味偏屈でマイノリティだと思う。
正直自分でも自分のことをうざいと思うときは多々あるが、それは曲げられない
自分の性であるし、言いたいことも言えない世の中は確かにポイズンだろう。

誰にも言えない人もいると思う。言いたくても言えないということは
なんと辛いことだろうか。知りたくても理解することができないことも辛い。
それを何となく醸す人の顔つきを見るとき、悲しくなり恐怖を覚える。
結局何もしてやれず、わかったようなふりをして偽善者を
気取ることしかできない自分も矮小に思える。

ただ自分が見てきて感じたことをありのままに自分の言葉で語ることが
おれにできる他人に対するささやかなお節介なのかなーと最近思うようになった。
見ている人はどこかで見ていてくれてるはずなのだ。そう思えなきゃあまりに虚しい。

最近は酒を呷ってから文章を書いているのでしみったれて鬱陶しい
駄文になっていることをお許しいただきたい。

こんなことを書きながらこれでもかなり悠々自適に生活している。
結局は俯瞰的な浮いた戯言でしかないと思うが
それをとりとめなく書きとめるのがこのブログの趣旨の一つでもあるのでご容赦を。


OBの戯言

所属していた放送サークルの学園祭の打ち上げやらなんやらにOBとして参加してきた。
去年引退して半年以上経つわけだがやはりこれまであまり実感がわいていなかった。
でも今回は明らかに感覚が違った。

明らかに自分がOBだということを認識させられた。それは自分の一年下が
もうすぐ引退するという姿と去年の自分の姿の二つが鏡写しのように見えたからだと思う。

自分のことは自分がよく一番分かっているはずだと思っているけども
自分以外の人に昔の自分の姿の片鱗を見るとき人は、はっきりと「老い」を感じる。

もともと喋り出せば年に似合わず「おじいちゃん」だの「オヤジ」だの「おじさん」だのと
謗られることの多いサークル生活だったけどもはっきりと
何か一つ年をとったことをまざまざと実感した。

そしておれは後輩に何もできなかったダメな先輩だけれども
ダメならダメなりにそこから後輩が何かを感じ取ってくれただろうかと
打ち上げでわいわいしている姿を見て思うところだった。
何かを教えられるほど立派には生きてこなかったのでいつも悔しく思う。

楽しく談笑するものやら、疲れに打ちひしがれて壁にもたれるものやら、泥酔するものやら
とにかく人それぞれの酒の席を見たときなんだか得体のしれない安心感があった。
現役生からしたら引退して何を呑気なことをほざいているんだと叱咤を
受けるかもしれないが、確実に時は流れ、何かは伝わっていくんだなということを
単純に嬉しく懐かしく思うのだ。

サークルなんて確かに責任のないただの慣れ合いなのかもしれないが
まったく素知らぬ、意見も合わぬ人間がまがりなりにも徒党を組んで
成功か失敗はさておき何か一つのことを成し遂げることはやはり
意義のあることだと思う。

終わってみれば、満足した人、疲弊した人、なんとなく過ごした人
色んな人がいると思うけれども、それがそれぞれの結果であり「正解」なのだと思う。
結局その人なりの生き方とか考えはいかなる場でも終わったときに結果として反映してくる。
あとはただ受け止めるしかできないことが確かに辛いことなのかもしれない。

ただ無駄か無駄じゃなかったかは「自分で」決めてほしいと思う。
他人に自分の姿を見てもいい。他人に甘えてもいい。他人を批判してもいい。
でもことが終わったときに自分なりに意味を見出してほしいと思う。
ただ「疲れた」だけじゃないと思う。

隅っこのOBの席からはなんだかよくわからないがみんなの「顔」がよく見える。
少なくとも誰一人として意味のない顔はしていなかったと思う。
ほろ酔いのうちに書いたこの文章になんの説得力もないとは思うが
もし、サークルとか慣れ合いとかに意味ねーとか思っている人は
もう一度みんなの顔をよく見て欲しいと思う。

20代のくせにロクな人生を送らず、偉そーにわかったようなことを言うというのが
好きという悪趣味を持つ一人のOBが思うのはそういうことだった。


涼秋

すっかり涼しくなった。秋は過ごしやすい。暑くもなく寒くもない。
街の人ごみも涼しくなるとなんとなく威圧感を感じなくなる。

服も重ね着が出来て楽だ。夏場は単なる薄着になってしまうのでどうも落ち着かない。
いつも何か羽織ってないとどうもスカスカするのが気になる。

子供の頃から青いブランケットを手放さず、「あお!あお!」と叫んでは
それにくるまって寝ていたことを思い出す。
結局でかくなっても子供の頃にしみついた変な癖は抜けない。
思いがけないところで残っていることに気づく。

なんだか最近あくせくしていていつもと違う毎日を送っていたので
不意に街に出てぶらぶらすると所在もなさげになってしまうことに気付いた。
意味もないものを衝動買いしてしまったりするのでだめだなぁと思った。
目的もなくぶらつくのは得意だったのになんだか妙だ。

余裕がないと狭窄してくるので少しでも気分転換になることを
探そうとするけども逃避もしてられない。ふんばりどころだ。

けじめとメリハリをつけて過ごそうと思う。


1点の重み

中日が53年ぶりに1-0でホームで鯱に錦を飾った。
それにしてもノーヒットノーランの完封リレーで幕を閉じるとは思っていなかった。

故郷が北海道ということもあり去年も沸きに沸きに沸いたので、
日ハムを応援していたのだが、アウェイに持ち込まれてからは散々だったので
気迫も落ちていた。月並みだがダルヴィッシュはめちゃめちゃかっこいいと思う。
顔だけじゃなくてエースの貫録十分だ。

中村の涙ながらのインタビューが印象的だった。
近鉄の大将から、中日で入団テストを受けての一からの再出発は
さぞ大変だったのだろうなぁと感慨を受けた。

1点くらい大丈夫だろうというのは甘かったようで、まあー打てないものだなぁと思った。
新監督との折り合いもあって何か選手たちに精神的な陰りでもあったのだろうか。

普段プロ野球はあまり見ないのだがなんとなく熱くなった。
スポーツってやっぱり素晴らしい。


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隼んver.2.1

Author:隼んver.2.1
性別:男
出身:北海道札幌市
現住所:神奈川県横浜市
血液型:不明(いい加減知りたい)
職業:小売・販売業
これまでの迷言:
おれ達は前を見ることしかできない。
好物:ラーメン(何味でもかまわんです。)

少年老い易く、学成り難し。
もう少年でもないので、
老いてゆかぬよう頑張ります。
おっさん老い難く、学成り易し。

リンクフリーでございます。


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