
帽子を買いたくなって赤レンガの中にあるCA4LAを目指して
霧雨降るみなとみらいを散策した。
のんびりとただMMを見て回るのは久しぶりだった。
微妙に少しずつ発展をみせて街の姿が変わっているのに気づいた。
数年の間を空けて人にあったり、街に出向いたりするとその変化に
感動したり驚いたりすることはままあることだ。
街を生き物のように動的にとらえる社会学者がいるが
なんとなくそんな考え方にも頷けるものがある。
人も動物も長い年月の中で少しずつ姿を変える。
街も時代とともにその姿を変えていく。

何気ない風景もじっとみていると何かしらの構図があって面白い。
これが計算されて作られているものもあれば
偶然そうなっているものもあるし、
風景や情景というのは本当に見ていて飽きない。

最近は機能に加えて、なによりそれを包括するデザインが重要視されるようになってきた。
グッドデザイン賞の展示会の特集を見た時も思ったが、
本当にいろいろと考えられてモノがデザインされているものだなと関心した。
デザインの語源はデッサンと同じくラテン語の「計画を記号に表す」という意味の言葉
"designare"であるらしいが、なるほど納得である。
これは良いデザインだと軽々しく言うようになってきたような気がするが、
デザインした人間が計画して表したモノは本来の計画通りの意味を、
受け取る側がどこまで理解しているかというのは本当に怪しいものだ。
もちろん100パーセントそのまま意味が伝わることもないだろうが、
ある程度意味が疎通できなければ良いデザインとは言えないのではないだろうか。
伝え表現することは大変エネルギーのいる行為だと思うのだが、
受け取るのはあくまでも受動的で黙っていても投げかけれることは溢れている。
それをきちんと腰を据えて同等のエネルギーでもって受け止めねば
デザインされたものをある程度のレベルで受け取ることも難しいと思う。
何を感じるかは確かにひとそれぞれだが、
感受性の豊かさはそういった行為の積み重ねで
培われるものなのかもしれない。