品格の時代
本屋をたむろしていると新書の山に坂東真理子氏の「女性の品格」の
臙脂色の表紙がやたらに目についた。
TVでも特集が組まれていたし、内容をちらっと見てみた。
「約束を守る」、「流行を追わない」、「良いことはさりげなくする」、
「家族の愚痴を言わない」などと品格ある女性とは
何かということを事例を用いて書いてある。
今は何でも大安売りの時代で親書も数百円で買える時代であり、
うちの現代思想の教授も「新書」による「思想」の薄利多売の時代だと
評しているが、確かに昔は一般的なお偉いさんの学者の本というのは
分厚く、高い上に内容も難しく、一般人には取っ付きにくかったのは事実だと思う。
果たしてそれが良いの悪いのか別としてこういった社会的思想について
国民の興味が高まっているのは確かなようだ。
gooリサーチに「品格・道徳感」についてのリサーチが行われていて面白い。
http://research.goo.ne.jp/database/data/000296/
おれもこのブログで色々と礼儀だとか道徳について不満を述べたことが
あるような気がする。確かにそれだけ道徳心の無い人が周りに増えているのは
おれも体感できるし、よく周りからもそういった人の不満や相談を聞くこともある。
小学校の頃の「道徳」の時間を思い出す。というか実は「道徳」という
言葉が切に聞かされるのは教育の中ではその時間しかない。
以後は一切「道徳」については具体的に教育がなされることはない。
もはや当たり前だから教えないのかもしれない。別に口喧しいどこぞの親のように、
学校で「道徳」をちゃんと教えるべきだ。と言いたいわけではない。
道徳や品格を身につけさせる、あるいは身につけるというのは
大変難しいことだからだ。「当り前のこと」を教えることほど難しいことはないと思う。
「品格・道徳」というものはその人の育ってきた環境と価値観に大きく左右される。
もっとかみ砕いて言えばその人の「歩き方や癖」くらい自然なレベルで
顕在化してくるようなものである。
「品格」という言葉が使われる文脈は、「あの人はどことなく品格があるね。」
「王者の品格が漂っている。」とかいう程度のものであり、
どーん!と「品格」自体が主張してくることはないことからも
品格とは非常にオーラ的で具体性のないものであると思う。
だからおれ個人の意見としては本を読んだくらいで一朝一夕に身に着くのなら
苦労はしないなとちょっと斜に構えた辛口な意見だが、
意識しないよりはした方が断然良いことには変わりはない。
とにもかくにも「道徳・品格」はそれこそ長い期間を経て培われていく「気品」に近い。
そもそも何のためにそんなものを身につけるかと言うと「人に嫌な思い」を
させないためである。少なくとも小学校ではそう教えていたはずだ。
「~~君はこうされたら嫌だよね、だから君も人に嫌なことするのはやめようねぇ~」
と幼稚園でも教えているはずだ。
しかしどうも最近のセレブ主義とか贅沢主義、余裕主義みたいなものが
美徳として誰もが憧れているんだというマスコミの宣伝広告によって
品格をなぜ身につけるのかというベクトルの向きがおかしくなっているように思える。
貴族社会であればそういった要素でテーブルマナーを身につけなければならないというのは
分かるが、日本はまだそこまでブルジョアジーがはっきりしている国ではないはずだ。
端的に言うと「人に嫌な思い」をさせないというよりも「人に良く見られたいから」と
言った空気を感じずにはいられないからだ。
勿論、人によく見られたいとか虚栄心というのは誰でもあるし
それがなくなれば人はどんどん堕落していくので一言でそれが悪いと断罪できないが
果たして「虚栄心」だけで道徳が身につくのかというとやはり疑問だ。
よっぽどの精神力がなければ人は背伸びしてずっと歩くことはできない。
どこかで綻んで結局は身の丈にあった生活の仕方に戻るものだ。
リサーチによると道徳心がなくなったから犯罪が増えたという意見が多いが
社会という環境が悪くなったから道徳心がなくなるという見方もできる。
まあ何のせいかということを言うのはあまりに不毛だ。
もうひとつ面白いデータは取り入れるべき主義として「個人主義」が
取り上げられているところである。
そもそも個人主義とは何かということがまず難しいのではないだろうか。
国家論の中で出てくることが多いようだが、"wiki"にはこうまとめてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
「個人主義は他者の拒絶や排除によっては達成されえず、
自分同様に他者を尊重することをもって初めて達成しうるものである
(そうでなければ個人主義を達成するために他人を犠牲にすることになる)ので、
利己主義とは区別される。」
意外や意外で、「個人主義」と聞いたら自分がまず第一であるという
雰囲気を感じやすいものだが、何よりも他者を尊重する思想なのだ。
事実「個人主義」と「競争原理」は割と同じような文脈に登場していることが多い。
個人主義を成すには付け加えてwikiにはこう載っている。
「他人に対するように自分を尊重し、自分に対するように他人を尊重しなければ
こういった考え方は十分に機能せず、エゴイズムの暴走を招くことになる。
そのため高度な知性と自己統制を必要とするスタイルであるといえよう。」
高度な知性と自己統制とあるがこれは「道徳心」と言ってもいいのではないだろうか。
他者を尊重することが「個人主義」の前提条件というのは明白のようだ。
「個人主義」とか「自己責任」という言葉を聞くとき「自分がきちんとしていればいいのだ。」
というニュアンスを感じていたのはおれだけだろうか。その実まったく逆である。
こういう言葉を掲げることができるのは何よりもまず他者を尊重できる人間だけなのだ。
思想を「購入」するのなら、ちょっとその世界に入り込んでみると
色々なものが数珠つなぎに絡んでいることがよーくわかるものだ。
民衆が「道徳心」が足りないと感じているのならそれが見えざる手によって
自浄されることを切に願うが、願っているだけではどうにもならないと思うので、
おれも立派な「個人主義」を身につけられるように日々精進し、
当たり前で最も難しいことであるが、「人の痛みが分かる」人間でありたいと思う。
臙脂色の表紙がやたらに目についた。
TVでも特集が組まれていたし、内容をちらっと見てみた。
「約束を守る」、「流行を追わない」、「良いことはさりげなくする」、
「家族の愚痴を言わない」などと品格ある女性とは
何かということを事例を用いて書いてある。
今は何でも大安売りの時代で親書も数百円で買える時代であり、
うちの現代思想の教授も「新書」による「思想」の薄利多売の時代だと
評しているが、確かに昔は一般的なお偉いさんの学者の本というのは
分厚く、高い上に内容も難しく、一般人には取っ付きにくかったのは事実だと思う。
果たしてそれが良いの悪いのか別としてこういった社会的思想について
国民の興味が高まっているのは確かなようだ。
gooリサーチに「品格・道徳感」についてのリサーチが行われていて面白い。
http://research.goo.ne.jp/database/data/000296/
おれもこのブログで色々と礼儀だとか道徳について不満を述べたことが
あるような気がする。確かにそれだけ道徳心の無い人が周りに増えているのは
おれも体感できるし、よく周りからもそういった人の不満や相談を聞くこともある。
小学校の頃の「道徳」の時間を思い出す。というか実は「道徳」という
言葉が切に聞かされるのは教育の中ではその時間しかない。
以後は一切「道徳」については具体的に教育がなされることはない。
もはや当たり前だから教えないのかもしれない。別に口喧しいどこぞの親のように、
学校で「道徳」をちゃんと教えるべきだ。と言いたいわけではない。
道徳や品格を身につけさせる、あるいは身につけるというのは
大変難しいことだからだ。「当り前のこと」を教えることほど難しいことはないと思う。
「品格・道徳」というものはその人の育ってきた環境と価値観に大きく左右される。
もっとかみ砕いて言えばその人の「歩き方や癖」くらい自然なレベルで
顕在化してくるようなものである。
「品格」という言葉が使われる文脈は、「あの人はどことなく品格があるね。」
「王者の品格が漂っている。」とかいう程度のものであり、
どーん!と「品格」自体が主張してくることはないことからも
品格とは非常にオーラ的で具体性のないものであると思う。
だからおれ個人の意見としては本を読んだくらいで一朝一夕に身に着くのなら
苦労はしないなとちょっと斜に構えた辛口な意見だが、
意識しないよりはした方が断然良いことには変わりはない。
とにもかくにも「道徳・品格」はそれこそ長い期間を経て培われていく「気品」に近い。
そもそも何のためにそんなものを身につけるかと言うと「人に嫌な思い」を
させないためである。少なくとも小学校ではそう教えていたはずだ。
「~~君はこうされたら嫌だよね、だから君も人に嫌なことするのはやめようねぇ~」
と幼稚園でも教えているはずだ。
しかしどうも最近のセレブ主義とか贅沢主義、余裕主義みたいなものが
美徳として誰もが憧れているんだというマスコミの宣伝広告によって
品格をなぜ身につけるのかというベクトルの向きがおかしくなっているように思える。
貴族社会であればそういった要素でテーブルマナーを身につけなければならないというのは
分かるが、日本はまだそこまでブルジョアジーがはっきりしている国ではないはずだ。
端的に言うと「人に嫌な思い」をさせないというよりも「人に良く見られたいから」と
言った空気を感じずにはいられないからだ。
勿論、人によく見られたいとか虚栄心というのは誰でもあるし
それがなくなれば人はどんどん堕落していくので一言でそれが悪いと断罪できないが
果たして「虚栄心」だけで道徳が身につくのかというとやはり疑問だ。
よっぽどの精神力がなければ人は背伸びしてずっと歩くことはできない。
どこかで綻んで結局は身の丈にあった生活の仕方に戻るものだ。
リサーチによると道徳心がなくなったから犯罪が増えたという意見が多いが
社会という環境が悪くなったから道徳心がなくなるという見方もできる。
まあ何のせいかということを言うのはあまりに不毛だ。
もうひとつ面白いデータは取り入れるべき主義として「個人主義」が
取り上げられているところである。
そもそも個人主義とは何かということがまず難しいのではないだろうか。
国家論の中で出てくることが多いようだが、"wiki"にはこうまとめてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
「個人主義は他者の拒絶や排除によっては達成されえず、
自分同様に他者を尊重することをもって初めて達成しうるものである
(そうでなければ個人主義を達成するために他人を犠牲にすることになる)ので、
利己主義とは区別される。」
意外や意外で、「個人主義」と聞いたら自分がまず第一であるという
雰囲気を感じやすいものだが、何よりも他者を尊重する思想なのだ。
事実「個人主義」と「競争原理」は割と同じような文脈に登場していることが多い。
個人主義を成すには付け加えてwikiにはこう載っている。
「他人に対するように自分を尊重し、自分に対するように他人を尊重しなければ
こういった考え方は十分に機能せず、エゴイズムの暴走を招くことになる。
そのため高度な知性と自己統制を必要とするスタイルであるといえよう。」
高度な知性と自己統制とあるがこれは「道徳心」と言ってもいいのではないだろうか。
他者を尊重することが「個人主義」の前提条件というのは明白のようだ。
「個人主義」とか「自己責任」という言葉を聞くとき「自分がきちんとしていればいいのだ。」
というニュアンスを感じていたのはおれだけだろうか。その実まったく逆である。
こういう言葉を掲げることができるのは何よりもまず他者を尊重できる人間だけなのだ。
思想を「購入」するのなら、ちょっとその世界に入り込んでみると
色々なものが数珠つなぎに絡んでいることがよーくわかるものだ。
民衆が「道徳心」が足りないと感じているのならそれが見えざる手によって
自浄されることを切に願うが、願っているだけではどうにもならないと思うので、
おれも立派な「個人主義」を身につけられるように日々精進し、
当たり前で最も難しいことであるが、「人の痛みが分かる」人間でありたいと思う。
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